和樹と環のひきこもり社会論(37)

(37)【「誰がその問題を論じるのか」】   上山和樹

 社会問題をどう構成するのか、ということと、それを誰が論じるのか、ということで、混乱が生じているんですね。
 行動を起こした瞬間に本人の現実が変化してしまい、「ひきこもり」「フリーター」「非モテ」というレッテルが不正確になってしまう。斎藤さんのこのご説明にやや抵抗があるのは、本田透さんにしろ、赤木さんにしろ、あるいは「ひきこもり当事者本」にしろ、自分のネガティブな状態を説明してその当事者として登場したところで、本人や関係者のしんどい現実はさして変わらず、ただ問題は「貼られたレッテル」のレベルに生じるということです。本人の状況が変化すること自体は、むしろ喜ぶべきことでしょう。
 私はここに、「当事者」という言葉の使われ方のゆがみを感じるんですね。斎藤さんは「告発」とおっしゃいましたが、ある深刻な状態について説明し、その問題を描き出そうとするのに、その書き手が「当事者」であることで、参加資格が生じる。するとその書き手は、その状態にとどまっていなければいけないとされ、本人もそれをどこかで意識している。――これは、人をある条件に縛り付けることであり、誰かを差別的に扱うことではないでしょうか。そしてそこに、支援されるチャンスも、本人のアリバイやナルシシズムもある。
 そもそも、人が自分を「当事者」として扱うのは、ナルシシズムに浸ったり特権化されたりするためではなく、《現実に取り組むため》ではないのでしょうか。自分で自分の状況を論じてよい、そのことに、現実と繋がるための作業の手続きを見出すこと。私に関して言えば、そういうモチーフを通じてでなければ、自分の現実をうまく構成できません。
 本人の状態がどう変化しようが、あるいは最初から強い立場にいようが、誰にとっても「自分の現実」は問題となり得るはずです。それは、誰かや何かを「告発する」ためだけではなく、自分のいる場所で何かを引き受けようとするときの、試行錯誤の構図でもあると思うのです。