和樹と環のひきこもり社会論(23)

(23)【「苦しむために生きる」という非合理】 上山和樹

 ひきこもりのリアリティについて報告しようとすることの悩ましさは、それを本当に感じてしまっては社会から離脱するしかなくなるし、それを単に忘れてしまっては、報告できないということです。社会順応できる意識を持とうとすることは、それ自体がなぜかひどく自分を痛めつけることで、嘘やごまかしができなければ、順応することができない。
 しかしそれは、内的にはごまかしでしかないので、自分が空虚にバラバラになってしまう。その苦しさと戦うために、必死であれこれと試みている。バラバラでいいじゃん、と思うのが大人になることかもしれない。
 強迫症状の場合には、不潔さや不完全さなど、恐怖の対象となるものが必死で排除されますが、ひきこもりの場合には、恐怖感情そのものが恐怖の対象になるので、すべてを「なかったことにする」という心の動きがある。これは、自分をバラバラに解体してしまう恐怖に対するリアクションです。斎藤さんの言葉を借りれば、「死を恐れすぎるあまり、みずからを限りなく生から遠ざけておく」。
 生に近づいてしまったら、というか、生きていることに気がついてしまったら、死んでしまうかもしれないじゃないですか。だから必死で合理性で塗り固めて、それ以上は「なかったこと」にしてもらう(なんと身勝手な!)。
 「生き延びるためには働かなければならない」と、単純に言うのは変だと思うのです。働こうとすれば、自分が生きていることを思い出してしまう。「死んだふり」でアリバイを保っていたのに、また引き裂かれる。――なんだか、苦しむために生きているみたいです。それなら、何もかも「なかったこと」にして、このままなし崩しに死んだほうがいい。
 私たちはここで、納得できる「非合理」の形について、検討するべきではないでしょうか。合理性を探求していても、生きる理由は見つかりません。社会参加やサバイバルが、最初から決められた課題というわけでもないと思うのです。