和樹と環のひきこもり社会論(21)

(21)【合理性から抜けられない*1 上山和樹

 「無駄な事だと思うだろう? でもやるんだよ!」――なるほど、これは励みになりますね。でも、この名言の元になったという、「犬のエサ用タライをわざわざ洗剤で丁寧に洗う行為」は、ひきこもりの状況に置き換えて考えてみると、どうなるんでしょう。馬鹿げていると思いつつそれでもやるべき行為とは、「ひきこもること」でしょうか、それとも「働くこと」でしょうか?
ここらへんに、本当の核心がありませんか。
 前便で斎藤さんが指摘されたように、ひきこもりとは、なにか非合理で圧倒的な力に逆らえなくなっている無力な姿ですが、どのような「非合理な力」かというと、「合理的であろうとしてしまう」という、どうにも逆らえない狂信的な力であるように思うのです。
 トラブルを避けたい、なんとかまともに生きていきたい。そうした「合理的であろうとする」心の動きを、どうしてもやめることができない。それが結果として、トラブルそのものでしかない「ひきこもり」になる。周囲がなんとか「合理的に」説得して社会復帰をうながしても、それはむしろ元々ある方向を強化してしまい、逆効果にしかならない・・・。
 これは、現代社会が前提にしている最も基本的な考え方を、裏切ってしまう事情ではないでしょうか。合理的であろうとする行為は、ただひたすらに合理的であるはずで、それは「非合理」の対極にあるはずです。それなのに、「合理的であろうとすることを狂信的にやめられない」だなんて。
 だからこそ、世間には理解されないし、本人自身にもどうしようもなくなっている。まともに考えようとすればするほど、ドツボにはまってゆくのですから。
 問題は、そのドツボの状態が本当に「バカげた行為」なのか、ということです。それは、耐え難い社会の中で、かろうじて自分を守る最後の手段にも見える。
 とはいえ、私が続けている努力は、単なるひきこもりでも、単なる順応努力でもない。たぶんヒントは、その辺りにあると思うのですが・・・・。

*1:リンク先HPではなぜかタイトルが「トモ子とカズ男の今月の議論」になっていますが、単純なミスだと思います。