和樹と環のひきこもり社会論(9)

(9)【必然性の門】 上山和樹

 「社会参加への欲望と、社会そのものへの絶望が共存する時、欲望と義務は一致する」。これは本当に核心的なご指摘です。
 欲望と義務が一致すると聞かされて、私が真っ先に思い浮かべた言葉が、「必然性」でした。生きている自分の時間を意味のあるものにしたいと願う私が、息つく暇もなく必死に探し求めているのが、自分にとっての「必然性」です。この私は、いったい何のために生まれてきたのか。どんな仕事に就くのであれ、生きている時間はひたすら苦しい。でも、「自分はこれのために生まれてきたのだ」と思えるような、真に必然的と呼び得る人や仕事に出会えれば、きっとどんな苦しみにも耐えられる。心の底から納得できる「義務」に、私は早く従事したい――いや、そのような義務なしには、とても生きていられない。
 にもかかわらず、私の出会う人も、仕事も、偶然的にしか思えない。べつに、これ(この人)であってもなくてもいい。たまたまこれしかないから、ここに従事している。――過酷なトラブルに満ちた現実の中で、そのような「どうでもよさ」は、自分の存在を耐え難いほどバラバラにしてゆきます。
 働くことは、戦いであり、生きていくための義務だとされます。しかし、この世に生まれてきたことが、そしてそこで生き延びることが「必然」と呼べないならば――偶然的で投げやりな浮遊状態でしかないならば――、そんなものを維持するための「義務」とは、誰かの押し付けた「恣意的な強制」でしかあり得ない(偶然でしかない現実が、どうして本物の必然的義務を生み出せるでしょう)。また逆に、私の存在と取り組みがどうでもいいものでしかないなら、私が仕事をして差し出すものも、何か間違った詐欺的なものかもしれない。
 自分の決断も、他人の言動も、偶然とウソにしか見えない。その感覚は、動こうとすればするほど強まります。「どんなに厳密に選択しても、それもやっぱり勘違いかもしれない」――その終わらない確認強迫の苦しみが、あの度し難い「掟の門」ではないでしょうか。