当事者性をともなった研究の核心的テーマとしての党派性

党派性というのは、「なろうと思って」なる、という意識的な選択だけのものではない。「いつの間にかそうなっていた」でもある。その党派的傾向性を逸脱するときにも、「わざと悪意で」というより、「なぜかそうなってしまう」がある。*1


ある形で党派性を生き始めてしまうと、なかなか別の形には出来なくなる*2。アルコールに依存するように、ある傾向の言説に依存してしまう。その言説に問題があると言われても、やめられない。


さまざまな言説の硬直を、依存症や中動態との関係で論じることは、
現状の政治的混乱においてクリティカルでしょう。
それを論じている本人の、「自分の問題」として。



*1:中動態については、森田亜紀『芸術の中動態―受容/制作の基層』(2013年3月)、松嶋健プシコ ナウティカ―イタリア精神医療の人類学』(2014年7月)などを参照。▼國分功一郎中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)』(2017年4月)と松本卓也によるその書評は、上記2冊への正当な配慮を欠いているように見える。さて、これも党派的な排除だろうか。

*2:個人的にもそうだし、集合的な傾向性としても