知性が党派的傾向性を必要とすること

 追い詰められているのは、われわれの方ではない。奴らの方が追い詰められているのである。ゆえに、問題はいまや奴らに勝てるかどうかではない。すでに勝利は確定している。真の問題は、この勝利からどれだけ多くのものを引き出せるのか、ということにほかならない。白井聡、2015年9月)

 判断力がない人間に参政権を与えるのは不適切、という論理はもっともである。だが、普通選挙制度は導入された。ではかつての批判にどう答えてきたのか。最も筋の通った反論は、「判断力が未熟な場合があるとしても、人は判断力を高めるべく努力するはずだ」というものだ。今日の惨状をみたとき、この反論は成り立つのか。白井聡、2017年5月)*1



左派系の有名人から、このたぐいのアレな発言が続いている。

左派はもう、「勘違いして大見得きってるダメな人たち」にしか見えない。




これは私にとって、他人事ではない。

対人支援の界隈は、基本的に左派の文脈にある。
とりわけ、私が関わらざるを得ない《当事者論》の界隈は。
→左派の知的環境がダメなら、対人支援をめぐる知的環境も信用できない。
私は、俯瞰目線で言葉遊びをしていればいいという状況にはいない。


「私がどうしても考えざるを得ないモチーフは、左派の知的コミュニティにしか受け入れてもらえない」――そう思う程度には左派を信頼してきたし、その知的伝統に敬意を払ってきた。

ところが、信頼できると思っていた左派のコミュニティには、基本的な知的能力を期待できないのかもしれない。イデオロギー的な思い込みが硬直しており*2、もはやその主張は、デマやブーメランでしかあり得なくなっている。*3


ここ最近になって急に変質した、というより、
左派はもう何十年も前から、こういう体質の勢力でしかないということなんだろう。とすると、私自身が今ごろになって「気づいた」にすぎない。



それでは私は、知的権威や伝統から逸脱しがちな自分のモチーフを、どの知的母体に向けて記せばいいのだろうか。

集合的に一定の知的傾向を共有するコミュニティをまったく期待できないなら――私の問題意識は、どこまでも拒絶される。*4


知的営為は、ほんの少し立場が違うだけで、「そんな話をしても意味がない」と見做される。
自分が必要とする知的営為を拒絶するタイプの人しか周囲に期待できないなら、私が考えていることは、消えるしかない。就職もできないし、そもそも論文として受け入れてもらえない。*5


中学時代に始まって40代後半の今に至るまで、私はほぼ全面的に、左派の知的環境にいた*6。今ごろ左派がおかしいと気づいたところで、「右派なら受け入れてもらえる」というものでは全くない。



こうして私は、「自分の傾向性を受け入れてくれるような知的潮流を、自分で作り出すしかない」という、ほとんど冗談のような難しい課題に直面してしまう。



私のような意味で途方に暮れているかたは、それなりに多くいらっしゃるのではないかと思うのだけど――



*1:こちらのツイートの示唆より

*2:悪い意味で宗教的

*3:「森友・加計」「放射線で鼻血」「オスプレイ」「豊洲は汚れている」etc.…

*4:左派の好きな「単独性」「特異性」とはこういう事態であって、嬉しいことではない。みずからの分析の傾向性についての党派的潮流を作り出せなければ、単に黙殺されて終わる。これについては、「寛容」「多様性」というスローガンだけでは対応できない。

*5:たとえば、フロイト的な精神分析を研究した論文は、「精神分析を認めない知的コミュニティ」では、受理されない。ここで私が言っているのはひとまずそういうこと。▼ジャック・ラカンは、彼の考えるようなスタイルでの「分析的な話」が続くためには、学派という党派集団が必要だと考えたのだろう。

*6:三島由紀夫などの例外を除いて、左派の本しか読んでこなかった。