追い詰められると、問題意識こそが孤立する

順応できなくなると、それだけで頭が一杯になり、他のことが出来なくなる。
そこで、自分で自分の事情を引き受け、やり直さざるを得ない。
自分なりの技法を開発することでしか、しのげない。


私は何とか、技法を開発してきた。それは、問題意識じたいをやり直すことに他ならない。「当事者」をチヤホヤするような規範言説は、実態を置き去りにした欺瞞でしかない。*1


ところが、追い込まれたがゆえに編み出した、編み出さざるを得なかったモチーフが、医療や学問・運動体の権威者たちと相容れず(といって彼らに迎合するわけにもいかず)、彼らのプライドを損ねた。→私は社会関係から排除されることになった。


内在的に考えざるを得なくなると、問題意識こそが孤立する。
そもそもの事情において追い詰められているので、
成果を出せなければ、自分が死んで終わる。


権威者たちは、既存の欺瞞言説の中で偉そうにしているだけであって、実際的な問題解決を必要としているわけではない。苦しむ本人が考えざるを得なかったこと、そこでようやく命をつないできた問題設定は、権威者のご機嫌をとれない。往々にして有名人は《当事者》を、自分の格好つけと地位のために利用するにすぎない。

本エントリは、ひきこもり問題を描きなおしただけとも言える。

問題意識のありようと、関係性のありようは切り離せない。*2
ここに描き出したことは、関係者の命が懸かるほど重要だが――権威者たちは、自分の問題意識という生産体制(≒資本)から、身を引き剥がすことができない。苦しむ本人が実際的に編み出した技法は、既得権と化した思い込みにとって邪魔なのだ。



*1:規範言説はそれ自体が「問題の一部」、それもかなり決定的な要因だ。言葉が、私たちの問題意識と関係性を規定してしまう。それは《生産様式》にほかならない。

*2:つながりの作法とはこれのこと。党派性の技法実態としての「問題意識のありよう」。