失敗の研究としての当事者概念(メモ)

私は自分がうまく行かなかった経緯を内側から考え直すことを良心性のかなめとしてきた。「自分はうまく行っている」という自己申告には、ウソが混じる――そういう感覚を最優先に考えた*1。この感覚は、左派の知的伝統とも折り合いがよいはずだった。しかし実際は違った。

左派は、観念的な規範言説で全体主義をやってるだけ

「日本は第二次大戦の加害者だ」というが、左派は1億人を殺した自分たちの話は全くしない。1億人も殺したのに、謝罪も賠償もない。メタから説教するだけ。
みずからの過去の(あるいは現在形の)加害性を、どう扱えばよいか。――左派は、「観念的な説教で黙殺すればよい」というお手本を示している。

当事者という言葉は、自己検証と失敗責任に結びつくはず

ところが、現状これまでの左派がいう《当事者》概念には、居直りしかない。

  • 「私は当事者」と言えば、発言が権威づけられ、何もかも許される。
  • 活動家は《当事者》に加担すれば、正義を看板にできる。

絶対に逆らえないメタ正義の口実として、名詞形《当事者》が担がれる。

名詞形「当事者」の特定だけが重要になっている

なんという差別的な態度だ。
当事者と名乗った本人も、それを守ろうとする活動家も、動詞的実態は問われない。*2
関係界隈の失態に対する責任追及は、「名詞形当事者への裏切り」と処理される。

名詞を前提にした論理学に《失敗の研究》はない

私が試みたような、自分の動詞的失敗を研究しようという態度そのものが《当事者》という名詞でパッケージされ、差別的に囲われる。これでは当事者概念に、動詞としての自分を組み替える必要が伴わない。なぜなら、責任追及がないから。それどころか、むしろ自分の責任を考え直すことは、関係各位の利害に抵触してしまう。すべてが名詞形当事者を崇拝することで成り立っているからだ。そこで崇拝される《当事者》には、選挙による当落もない。*3

技法的当事者性は、名詞を口実にできない

名詞を口実にすることは、それ自体がひとつの技法だ。
あるいはたとえば《民主主義》は、「不完全だけどそれでやるしかないよね」という技法的説得に過ぎない。ところが左派は民主主義を、絶対無傷の理念のように扱う。間に合わせの技法として引き受けたにすぎないものを観念的に絶対化し、神として押し付ける。ここに対話不能が生じる。観念論的狂信は、技法的当事者性の免責にある。



*1:私にとっての《唯物論》はここにある。

*2:しかし第三者からは動詞的実態が問われるし、それこそが「差別的ではない、対等な目線」だ。cf.『ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター (紙の爆弾2016年7月号増刊)

*3:2016年7月の都知事選に出た鳥越俊太郎と、その応援演説をやらかした上野千鶴子は、みずからの失敗を《当事者的に》考え直すことはあるだろうか。▼ここで問われるのは動詞的実態であって、「私はマイノリティ」という名詞的な居直りではない。