2015年は、これまでにも増して、左派のおかしさが剥き出しになったと感じました。当事者論に関連して決定的だったのは、セクハラ冤罪バリケードの件です。
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- ★はてブ【「触るな!セクハラだ!」野党女性議員が理事会室前を占拠し審議を妨害、触るとセクハラを主張】(togetter) ▼当時のツイート集です。女性からの怒りの声が多い。
全国の注目が集まる場で、しかもTVカメラがたくさんあったからこそ、「セクハラだ」の訴えは、相手にされませんでした。しかしカメラも録音もない状況で、政治的悪意をもって「セクハラだ」と言われたら。女性の嫌悪感を神聖視しがちな現状では、男性側からの反論は難しいでしょう。*1
左派系メディア『LITERA(リテラ)』は、「セクハラ作戦という報道はデマだ」と、露骨なウソを書きました【参照】。証拠映像がある場合にすらウソを書くとなると、詳細な記録が期待できない場合には…。*2
以前からも話題になってはいましたが、
相手を政治的につぶすための武器として、《セクハラ冤罪》が使われる
そういう方針が実際に機能していることを、
ここには、《絶対に批判してはならない枠組みとしての当事者》という、硬直した政治フレームが動員されています。――右であれ左であれ、名詞形《当事者》概念が、どれほど卑劣で暴力的な使われ方をするか。これをまず自分自身について検討しなければならないのですが、
みずからの言説のありようへの分析を拒絶する勢力は、おのれにおいてどういう方針が採択されているかに気付けないがゆえに、みずからが信用を失っていく理由についても分析する能力がありません。自分たちの狂信性を解体的に検討する、自己検証の能力を持たないわけです。
これについては、簡単にメタに立って「私は正しいがあなたは間違っている」と言うことができません。それどころか、メタに立つことを原理的に出来なくするような問題設定であり、それが私たちの言説の条件になっている。――これを検討できている言説事業が、ほとんど見当たりません。
まずはこの言説事業そのものを、社会的に基礎づける必要があるのです。