政治的な武器としてのセクハラ冤罪は、なぜ可能か

2015年は、これまでにも増して、左派のおかしさが剥き出しになったと感じました。当事者論に関連して決定的だったのは、セクハラ冤罪バリケードの件です。

 民主参院幹部は「女性が前面に出れば手出しできない。女性による安保反対は絵にもなる」と解説した。(毎日新聞


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全国の注目が集まる場で、しかもTVカメラがたくさんあったからこそ、「セクハラだ」の訴えは、相手にされませんでした。しかしカメラも録音もない状況で、政治的悪意をもって「セクハラだ」と言われたら。女性の嫌悪感を神聖視しがちな現状では、男性側からの反論は難しいでしょう。*1


左派系メディア『LITERA(リテラ)』は、「セクハラ作戦という報道はデマだ」と、露骨なウソを書きました参照。証拠映像がある場合にすらウソを書くとなると、詳細な記録が期待できない場合には…。*2


以前からも話題になってはいましたが、

 相手を政治的につぶすための武器として、《セクハラ冤罪》が使われる

そういう方針が実際に機能していることを、(おおやけ)の場で確認できたわけです。


ここには、《絶対に批判してはならない枠組みとしての当事者》という、硬直した政治フレームが動員されています。――右であれ左であれ、名詞形《当事者》概念が、どれほど卑劣で暴力的な使われ方をするか。これをまず自分自身について検討しなければならないのですが、
みずからの言説のありようへの分析を拒絶する勢力は、おのれにおいてどういう方針が採択されているかに気付けないがゆえに、みずからが信用を失っていく理由についても分析する能力がありません。自分たちの狂信性を解体的に検討する、自己検証の能力を持たないわけです。


これについては、簡単にメタに立って「私は正しいがあなたは間違っている」と言うことができません。それどころか、メタに立つことを原理的に出来なくするような問題設定であり、それが私たちの言説の条件になっている。――これを検討できている言説事業が、ほとんど見当たりません。


まずはこの言説事業そのものを、社会的に基礎づける必要があるのです。



*1:男性が女性に話しかけて嫌な思いをされた場合は、いっさいの事情検証は許されず、いきなり「セクハラ」として糾弾されます(参照)。――《女性の嫌悪感》が絶対視され、反論はいっさい許されないわけで、そのことが政治的に利用されています。

*2:今年夏の安保法案反対・国会前デモでは、主催者発表による「参加人数の水増し」が問題になりました参照。▼「歴史修正主義」は、以前はもっぱら右派を指す用語でしたが、じつはそれが左派の問題でもあることが、パブリックイメージとして(ますます)定着したように思います。