「反知性主義」と、潜行的な知性

書評本文より(以下、枠線内はすべて上尾氏の文章からの引用)*1

 当代の知識人たちが寄稿するこの雑誌が、知性の代表みたいな風にして、(ポピュリズムの政治も含め)現代の民衆がいかにアホであるかについてごたくを並べていたらやだな、と思ったのだ。



左翼・リベラルの文脈で口にされる「反知性主義」という罵倒語は、
むしろ「それを口にする人の話は聞かなくてよい」の指標みたいになってますが、
この上尾真道(うえお・まさみち)*2の書評は、たんに他罰的な見下しとは違う、
むしろそういう「見下し」に疑問を呈する話になっています。


熟読しました。「反知性主義」について書かれた文章としては、
これまでに読んだもののうちで最も魅力的でした。

 こんにちの「反知性主義」論の居心地悪さは、こうした「ほんものの知性」の擁護を、エリート主義でない仕方でやることの難しさと結びついているようだ。そこでエリートの何が悪いと開き直るひともいるだろうが、評者はやはりこの居心地悪さから出発せねばならないと思う。そこでは各人が、来るべき「知性主義」について――というのもまさに「知性主義」の不在が問題なのだから――、それぞれの思想、臆見、信仰、妄念、ノスタルジーやらルサンチマンを通じて各様に描くことになるだろう。さしあたり、そのようにするほかないように思われるし、また、そこで各人が「知性とは何たるか」について好きなことを言っているという点に、この議論の魅力がかろうじて保たれるのではなかろうか。だからこそ、なおさらそれらを「反知性主義」の看板で一枚にまとめることにたいしては、もやもやが募るのである。



18〜19世紀の教育家ジョセフ・ジャコトの「普遍的教育」の考えは、書評対象の著者ランシエールによって何度も「狂気」と呼ばれ、上尾氏じしんによっても「平等への狂信」と(留保つきで)言われています。
考えてみれば確かにそうだ。
メタな地点から見下すような論者は信用できませんが、しかしかといって、あらゆる場面で《平等》を言い続けては、バカげた意見にまで耳を傾けなければならなくなるし*3、あるいはそもそも、誰かに指導を乞うような《我慢強い訓練》が、成り立たなくなるでしょう。


今回の書評は、よく考えるとひどく過激なことを問うているのですが、「人を見下し続ける勘違い」を避けるには、どこかでこういうスタンスを考えなければならないはずです。

 「普遍的教育」と社会との関係はいささか込み入っている。そもそも解放された知性が「社会」を作る理屈などないからだ。知性はただ個人の思考のうちで己に固有の軌跡を描きだすものだからである。



制度的な「正しさ」に安住し、そこに相手を屈服させる以外の動きを作れなくなった「知性」は、もはや知性とは言えない。それは単なる順応だ――そういう話だと思いますが、もうこれだけで、昨今の「知的言説」とは、別のことが問われています。

 理性者の像は、ここでは社会の理性逸脱のなかに身を隠す、一種の地下潜行者として描かれているようにも思われる。したがって、「普遍的教育」における解放は社会的解放ではありえない。それは、人間の関係のなかで、局所的に生じる特殊な解放として生起する。

  • 「この自己対自己の関係を活用し*4、それに本来の真摯さを取り戻させてやることで、社会的な人間のうちに理性的な人間を目覚めさせることは常に可能である。社会機構の歯車のなかに普遍的教育の手法を組み込んでしまおうとしない者は、自由を愛する者たちを魅了するこのまったく新しいエネルギー、二つの極の接触により電光石火のごとく伝播する、重力も凝集もないこの動力を、生み出すことができる」(160頁)。

 わたしたちが期待をかけるべきは、まさしくこうした解放が、理性逸脱の社会の地下を潜行していくことである。たとえばそれは家庭から始まるであろう。



大言壮語する公式言説は、見下した傲慢さばかりになる。
むしろ、私的で親密な関係性に、(おいそれと公言できないような、人に知られては逮捕されるかもしれないような)イレギュラーな《知性》が閃く。


《大事な話にかぎって、親密圏でしか共有できない》というのは、
私たちが繰り返し体験している事情ではないでしょうか。

 こうした構えが、政治的実効性の弱さとして指摘されるとするなら、おそらくその通りであると言わねばならないだろう。〔…〕この弱さにおいてこそ、人間ジャコトの孤独とセットになった解放の潜在性というテーマが強く維持されることになるからだ。

  • 「ジャコトは、進歩を目に見える形で描き出すこと、それを制度化することを、平等の知的かつ道徳的な冒険の放棄として捉え、公教育を解放の喪の作業として捉えた、ただ一人の平等主義者だった。こうした類の知は恐るべき孤独をもたらす。ジャコトはこの孤独を引き受けた」(198頁)。

 狂ったものを捉える孤独は、しかし時間を超えた応答に委ねられよう。〔…〕この孤独のいくらかを引き受けようと試みてみるのも悪くあるまい。



私はこの指摘を、当事者論(あるいは当事化)の文脈で考えていました。


進歩を「知的冒険の放棄」と呼び、公教育を「解放の喪の作業」などと呼ぶのは、まさに狂気にも思えます。がむしゃらに、《成果》に向けて邁進すればよいではないか。
しかしそこで、私は何をやっているのか? このままの集合的直進が、本当に妥当なのか? 反知性主義というのは、まさに私のことではないのか?――これを問うことは、真っ先に罵倒の対象になるでしょう。しかしそういう孤立した、周囲から切り離れた、単独的な営為がなくなったら、それはもはや、アルゴリズム(手続)順応の全体主義にすぎないのではないでしょうか。


そこまで考えて、ようやく上尾氏の以下の文言に意味が出てきます。

 その解放的成果の伝達が社会的平面においては潜行的なものでしかありえない



知性というのは、むしろ「いかがわしい」。
わかりやすい手続を反復したところで、正しさを保証することはできない。


非常に重要で魅力的な考えだと思うのですが――多くの人たちにとっては、まさにこのスタンスこそが、反知性主義の権化のように思えるのではないでしょうか。「正当な手続きに則ってこその知性なのに、これはなんだ」と。争点はここだと思います。


この論点の射程や帰結は、私自身にもまだよく分かっていません。
とはいえ逆にいうと、イレギュラーな知性の位置づけが分かりにくいからといって、アルゴリズムや宗教的理念への帰依を要求されても、困るわけです。


今回の上尾氏の書評は、ブルース・リー「Don't think, feel」に触れたあと、
冗談めかして次のように終わっています。

 いま現在の対話のなかで怠ることなく感性のクンフーを積まねばならない




これで思い出すのは、とりわけ左派に見られる、紛争対応能力の低さです。
紛争言語を育てられなかった知的言説は、教条主義に留まったのではないでしょうか。
そして紛争対応においてこそ、思想の実態が剥き出しになるように思います。


最後に、可能性を感じた上尾氏の発言より:

 ひょっとすると非人間的知性ということから、平等の問題を根本的に捉え返すことにもなるのだろうか。この問いは開いたままにしておこう。



コミュニティの同調に回収されない、「非人間的な」知性。
この言い方じしんが、またしても狂信的コミュニティの拠り所になりかねない危惧もありつつ――それでもやはり、「希望はこっちにしかないだろう」と思うのですが。(「非人間的」の中身が問題ですね)



*1:私は書評対象になった本は読んでいません。また以下の引用で、強調箇所は当ブログ主によるものです。

*2:ご本人のブログ→ http://masamichiueo.blogspot.jp/

*3:上尾氏も問うているネット上の言論では、《バカげた意見をいかにスルーできるか》は死活問題です。ツイッターにしろブログにしろ、バカげた反論は山ほど来るので、これにいちいち「誠実に」対応していては、それだけで人生が終わってしまう。→あらゆるレスポンスに平等に対応しようとすることは、むしろ不誠実といえるでしょう。

*4:この「自己対自己」には、(1)おのれ自身による自己検証の意味合いと、(2)紛争的なやり取りの中で生じてくる検証の契機を読み取ったのですが、もとの文脈は不明です。