《切断》ができるための、《接続》事情の当事者性

「20世紀末・日本の美術」から「新しき場所」へ(togetter)より:

千葉雅也氏の切断論については、以前に拙エントリで疑問を出しました。



美的スローガンとしての「切断」や「逃走」*1が欺瞞的なのは、
それを言うことができるための条件を論じない、ということです。


切断や逃走を言うご本人たちは、どうやって生活してるのでしょうか。
ある《接続≒蓄積》があるからこそ、《切断≒逃走》を言えているわけです。*2


あるいは、《接続》のために必死で頑張らざるを得ない状況があるのに、
接続のためにどう苦しまねばならないか、その実態を考えない。
「ほうっておいたら切断されてしまう」を無視する。


ですから、むしろ考えなくてはならないのは、

    • 私たちがどういうスタイルの接続に追い立てられているか
    • 生活のために必要な接続の設計図を、どう書き換えられるか*3

でしょう。切断や逃走を考えるとは、結局はそういうことであるはずです。


《切断》をいう千葉雅也氏は、アカデミック・サークルやメディアに《接続》されていないでしょうか。その接続を維持するには、周到な計算が必要なはずです。業績や生活に直結した承認を失わずにいるために、何をせざるを得なくなっているか――そちらをこそ、詳細に検討せざるを得ません。(党派的承認の要因があるので、一元的な「勤勉さ」に還元できるような事情ではないわけです)*4


私たちが、いかに《パラノ的蓄積》に生命線を握られているか。その実態を考え、技法的なやり直しを編み出すことにこそ、《逃走》の焦点もあるはずです。「逃走をスローガンにすれば逃走できる」なんてことは、あり得ない。*5


いま切実に問われているのは、むしろ共同性をやり直すためのスタイルです。*6
ほうっておけば、バラバラになる(≒不本意に死ぬしかない)のですから。*7
にもかかわらず、自意識的に《逃走》や《切断》を言えば繋がってしまえる――そこに機能している接続のスタイルこそが、陳腐化しているのです。(これは、ダブスタ規範をコミュニティ内部に向けてアピールするしかできない左派の言説全般について言える危惧です。つまりそこでは、硬直した規範言説こそが《接続》の確認儀式になっている。)



*1:浅田彰

*2:例えば、生活費を全面的に親に依存している人が、「切断すればいいのに」などと言えるでしょうか。同じことです。

*3:イデアの具体例として、労働や生活環境の《ゲーム化》が挙げられます。ゲームプレイ・ワーキング」、「ゲーム化する生活(The Game-ified Life)など。▼ただし、生活がゲームとして一元化すれば、ゲームからの逸脱は死になるでしょう。

*4:千葉氏を称揚する松本卓也氏は、ラカン派として注目されていますが――同じラカン派の立木康介氏の著書について、とても内輪的な書評を出しています参照。ここには、ラカン派の概念操作の党派性を分析的にやり直す議論が、何もありません。つまり松本氏においては、ラカン的言説こそが接続の絶対性であって、それに担保されるからこそ、いい気な切断論(の擁護)ができるわけです。松本氏が医師免許によって《生活≒接続》を担保されやすいことも、条件として挙げてよいでしょう。

*5:ラボルド病院からの連続性で《分析》を主眼としたはずのグァタリ(Félix Guattari)について、浅田彰氏は「行動の人」としか評価できていません。浅田氏の《逃走》は、どうやら美学的な(自意識的な)スローガンにすぎないのです。

*6:私が《つながりの作法》で問い始めたのは、まさにこれです(参照)。自分を名詞形「当事者」とするだけなら、《つながりの作法》をめぐる問いは遺棄されています。なぜなら、名詞形《当事者》に居直った時点で、関係性をめぐる基本的な設計は終わっているからです。

*7:集合性のスタイルこそが、収奪されている。環境において支配的なスタイルへの同調においてしか、参加が許されない。