- 【『20世紀末・日本の美術』についての大山エンリコイサム氏の感想ツイート】(togetter)
.@EnricoLetter 大山様、「20世紀末・日本の美術」へのコメントありがとうございます。拙発言の偏りも含め、前向きに読んでいただけたようで、大変にうれしいです。更に僕の発言(主に後半の第二部の方ですね)の整理を的確に行って頂き、感謝します。
.@EnricoLetter 特に切断的批評が直ちに紛争状態から勝ち負けのシンプルなストーリーに転化してしまうのは、恐らく美術特有のことではなく、国内の言説のある「伝統」でもあるかもしれません。例えばかつての70年代文芸・美術批評にも、そういう光景があったように思います。
.@EnricoLetter そういった政治的紛争を忌諱したとことろに、広い・緩い意味での「地域アート」的な批評の排除を前提にしたコミュニティ、あるいはもっと広く「繋がりの目的化」のような事が起きているのは、大山さまのご発言の通りかと思います。
.@EnricoLetter これは以前大山様に御寄稿頂いた「組立-作品を登る-」で、ひきこもり研究家の上山和樹さんが論点にされていたことですが、作品なり作家なり、あるいは何らかの(美術に限らず)コミュニティへの批評的介入がただちに「紛争=政治」(勝ち負け)にならず、(続
.@EnricoLetter 承前)介入された方・した方双方に、ある契機とする方法が未だに上手くなされないのは何故か、と。これは大山様のお父様とそのお友達のような「成熟」の問題かもしれません。更に「市民」という概念をめぐって過去に宮台真司氏が語っていた事とも繋がるように思います。
.@EnricoLetter 僕としては、ここを精神的な成熟に賭けるだけではなく、ある種の方法として考えられないかな、と日頃考えています。現状で僕が考えているのは「文体」ということですね。単に言葉づかい、といってしまった方がわかりやすいのかもですが。
.@EnricoLetter 批評の言葉が、過剰に自己を防衛しつつ、その反動で悪い形でアカデミックになっていったり、ジャーナリスティックになったりする、その「文体」が事態を結果的に悪くしているようにも思えます。もうすこし「違う言葉づかい」はないものかなと、考えています。
.@EnricoLetter これは今回の「20世紀末・日本の美術」での僕の「文体」への反省も含まれています。2012年の「20世紀末」シンポの後に出した「組立-転回」誌の「今、ここにある美術批評(誌)」対談でも言ったことですが、僕はまだその「文体」を持ててません。
.@EnricoLetter 大山様のツイートで触発されたのは「時間の遅延」を言われている箇所ですね。一度作品への言葉を独立して捉えて感情面を抑えつつ、時間をかけて「新しい人格の糧」とするという所。大変アクチュアルに思えました。
.@EnricoLetter 切断と接続のサイクル、というお話も首肯できます。僕としては、切断・接続というモーメントと同時に(これも上山さんから示唆された言葉ですが)「交渉」という考え方も方法化(文体化)できないかと考えています。
.@EnricoLetter 「交渉」というと一定の利害の調整と捉えられるかもですが、ここではむしろ批評する側・される側の「立場」というものを一度かっこにくくって、双方の間においてモチーフ化する、というようなイメージです。これによって大山様のいう「新陳代謝」の契機にできないかと。
@ueyamakzk 上山さま、こんにちは。昨晩の私の連続ツイートで、上山さまからご示唆頂いた「交渉」「技法化」といったキーワードを元に、幾つか考えを述べました。
@ueyamakzk (以前もお話したように)やや恣意的な援用と思われる箇所もあるかと思います。問題ありましたらご指摘ください。
これまでの永瀬氏の議論(関連する一部)
今回の発言で、拙論への言及部分よりやや改変して引用:
>《コミュニティへの批評的介入がただちに「紛争=政治」(勝ち負け)にならず、介入された方・した方双方に、ある契機とする方法――が、未だに上手くなされない》http://bit.ly/1EcxI77 http://bit.ly/1EcxLQe
言及とご連絡、ありがとうございます。大山エンリコイサム氏と永瀬さんの発言を拝読し、示唆をいただきました。『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』は先日のイベント動画(参照)しか見ていないのですが*1、
そこで触れられていた「お金」や「二層構造」など――これは美術業界限定というより、《私たちの暮らす集合的な状態をどうするか》という話で、誰にとっても他人事ではない。ただ、制作と生活と批評が絡まり合う美術の領域には、このモチーフが先鋭的に現れる――という理解でおります。
そして、永瀬さんが「文体」という言葉で言い当てたものは、コミュニティの技法が問われる支援関係者にとっても、無縁ではあり得ないはずです。
権威の失墜には歓迎すべき点が多いとして、
しかし各人が本当に独自になれば、お互いに評価はされにくくなる*2。そうすると、権威が機能しなくなったことで、今度は別の回路で、均一化が出来上がってしまいもする。
曖昧な集合的評価から排除されてしまえば、生活できない。
イベントでも触れられていましたが、「お金と人事権のある場所や人が、ぜんぶ持っていってしまう」。いろんな場所で、保守的(というよりは順応的)なあり方が強まる傾向があって、これは思想研究など、いろんな場面に感じています。*3
単独的になるには、マーケットに承認されるしかなくなり、それが実は(消費される立場としての)奴隷的な自傷行為にすぎなくても、この回路から逃げられる人は居ないように見える。そうすると、単独的であろうとする努力までが、あるパターンにはまり込んでしまう。*4
各人が追い詰められるなか、自分と同じ努力方針での批評なら聞き入れることができても、「その発想で話題にするな」となると、もう議論そのものができなくなってしまう。→批評について一定のコミュニティが生まれないことで、かえって(マーケットに支配されるような形での)均一化が進んでしまう。
さまざまな立場の人が、この均一化には加担しているはずです。ここに照準しないと、こうした傾向に直結する生活問題を、話題にできません。
これは私からすれば、もはや単に作品批評というより、
社会参加をめぐる臨床努力のモチーフになります。
単独的な試行錯誤が、コミュニティからの排除を意味するようでは、真摯な発言は生活問題に直結します。批評は、いっけん「知的に」見える議論も、ひたすら生活防衛的だったりする。*5
「孤立しても追究する」は欺瞞にすぎず、コミュニティに支持されない状況まで織り込んだ(技法的な)試行錯誤が必要になる。
今はそうした努力より、「迎合が合理的」という判断が広がっていますが、
実際には、「それこそが集合的破綻を呼び込んでいる」という判断が必要に思います。
*1:書籍はネット書店のつごうで配送遅延中で間もなく入手予定
*2:単独性や複数性はイデオロギー的には祝福されますが、特異であればあるほど黙殺や非難の対象になる。
*3:新しい論者も、コミュニティ内部からの評価に(ということは雇用の心配に)縛られて、長老や同僚のお眼鏡に適う議論をしてしまいがちです。→「若手による老害」のような現象。
*4:これに近いことは、以前に永瀬さんが、「《変になれ》と言われると、みんな同じように変になる」というニュアンスで指摘されていたと思います。
*5:イベントでは木村絵理子氏が、「政治力のある人がいない」という話をされていましたが、そうであればなおさら、選択されるべき技法についても、カネと人事権のある場所が独占するように思えます。▼「作家的であることの対極に生活問題がある」という発想がありがちだとして、私はむしろ、生活問題をめぐる葛藤に、作家性の焦点を感じています。