コミュニティの技法としての文体


これまでの永瀬氏の議論(関連する一部)



今回の発言で、拙論への言及部分よりやや改変して引用:

>《コミュニティへの批評的介入がただちに「紛争=政治」(勝ち負け)にならず、介入された方・した方双方に、ある契機とする方法――が、未だに上手くなされない》http://bit.ly/1EcxI77 http://bit.ly/1EcxLQe



言及とご連絡、ありがとうございます。大山エンリコイサム氏と永瀬さんの発言を拝読し、示唆をいただきました。『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』は先日のイベント動画(参照)しか見ていないのですが*1


そこで触れられていた「お金」や「二層構造」など――これは美術業界限定というより、《私たちの暮らす集合的な状態をどうするか》という話で、誰にとっても他人事ではない。ただ、制作生活批評が絡まり合う美術の領域には、このモチーフが先鋭的に現れる――という理解でおります。
そして、永瀬さんが「文体」という言葉で言い当てたものは、コミュニティの技法が問われる支援関係者にとっても、無縁ではあり得ないはずです。


権威の失墜には歓迎すべき点が多いとして、
しかし各人が本当に独自になれば、お互いに評価はされにくくなる*2。そうすると、権威が機能しなくなったことで、今度は別の回路で、均一化が出来上がってしまいもする。



曖昧な集合的評価から排除されてしまえば、生活できない。

イベントでも触れられていましたが、「お金と人事権のある場所や人が、ぜんぶ持っていってしまう」。いろんな場所で、保守的(というよりは順応的)なあり方が強まる傾向があって、これは思想研究など、いろんな場面に感じています。*3


単独的になるには、マーケットに承認されるしかなくなり、それが実は(消費される立場としての)奴隷的な自傷行為にすぎなくても、この回路から逃げられる人は居ないように見える。そうすると、単独的であろうとする努力までが、あるパターンにはまり込んでしまう。*4


各人が追い詰められるなか、自分と同じ努力方針での批評なら聞き入れることができても、「その発想で話題にするな」となると、もう議論そのものができなくなってしまう。→批評について一定のコミュニティが生まれないことで、かえって(マーケットに支配されるような形での)均一化が進んでしまう。


さまざまな立場の人が、この均一化には加担しているはずです。ここに照準しないと、こうした傾向に直結する生活問題を、話題にできません。


これは私からすれば、もはや単に作品批評というより、
社会参加をめぐる臨床努力のモチーフになります。


単独的な試行錯誤が、コミュニティからの排除を意味するようでは、真摯な発言は生活問題に直結します。批評は、いっけん「知的に」見える議論も、ひたすら生活防衛的だったりする。*5


「孤立しても追究する」は欺瞞にすぎず、コミュニティに支持されない状況まで織り込んだ(技法的な)試行錯誤が必要になる。


今はそうした努力より、「迎合が合理的」という判断が広がっていますが、
実際には、「それこそが集合的破綻を呼び込んでいる」という判断が必要に思います。



*1:書籍はネット書店のつごうで配送遅延中で間もなく入手予定

*2:単独性や複数性はイデオロギー的には祝福されますが、特異であればあるほど黙殺や非難の対象になる。

*3:新しい論者も、コミュニティ内部からの評価に(ということは雇用の心配に)縛られて、長老や同僚のお眼鏡に適う議論をしてしまいがちです。→「若手による老害」のような現象。

*4:これに近いことは、以前に永瀬さんが、「《変になれ》と言われると、みんな同じように変になる」というニュアンスで指摘されていたと思います。

*5:イベントでは木村絵理子氏が、「政治力のある人がいない」という話をされていましたが、そうであればなおさら、選択されるべき技法についても、カネと人事権のある場所が独占するように思えます。▼「作家的であることの対極に生活問題がある」という発想がありがちだとして、私はむしろ、生活問題をめぐる葛藤に、作家性の焦点を感じています。