芸術の趣旨と臨床の趣旨は、お互いに単に外在的なのか

以下の公開研究会に参加してきました。

関連:*1



臨床には臨床の趣旨技法があり、
芸術には芸術の趣旨技法がある。


芸術を志すかたは、芸術の趣旨と技法に従ってご自分を追い込み、身を捧げるのだと思います。それは、「患者さんを元気にする」という臨床事業とは、ひとまず別の趣旨であるはず。結果として患者さんを元気にすることはあるとしても、アーティストの趣旨や技法は、患者さんを直接目指すわけではない。


では、「患者さん」の枠内に置かれた誰かが作品活動をするとき、
あるいはアーティストが「患者さん」と一緒に何かをするとき、*2
その営みは、どう位置づければよいでしょうか。


――芸術と臨床は、それぞれに自律的で、お互いに外在的なのか。
患者さんと取り組む活動は、「芸術の本道」からは外れているのか。*3


そういうことなら、この協働にはたいした言及価値がありません。「アートセラピー」というのは、いわば筋肉のリハビリみたいなもので、福祉的な臨床事業ではあり得ても、批評にとっての意義はゼロ。


いやそれとも、病気との格闘を続けるかたの制作活動や、そういう方々との共同作業には、芸術それ自身にとっての内在的な意義があるのでしょうか。


芸術が「危険な」何かを追究するなら、むしろそういう活動からは患者さんを遠ざけ、安全な「セラピー」に徹するべきかもしれません。――しかしそうではないとしたら――つまり、患者さんが芸術活動に取り組むことが、臨床内在的な意義を持ち得るとしたら、芸術は、臨床そのものにとって内在的な契機であるはずです。*4


アーティストは、みずからの趣旨に従うだけで、自動的に臨床活動の一部を担っていると言えるのでしょうか。また逆に、患者さんが施設で取り組むアート活動は、「趣旨としてはアーティストと同じだ」と言ってしまって良いのか。


研究会に参加しておられた服部正氏(『アウトサイダー・アート (光文社新書)』著者)によると、アールブリュットアウトサイダーアートに関して、

 あそこはセラピーだから

という評しかたがあるそうです。つまり、「だからつまらない」と。


これは、患者さんであっても、その活動にはセラピーを超える趣旨があり得るし、その認識がすでに、業界内の批評として動いている、ということでしょう。*5



【参照】practica〈2〉アート×セラピー潮流 (プラクティカ (2))

ラボルド病院の院長ジャン・ウリ(Jean Oury)の発言より(p.149):

 アートセラピー? それは何だ? ああ、あのアメリカ流の?
 そんなものはここには存在しない。



アートセラピーはない、芸術があるだけだ」というジャン・ウリの言葉は、しつこく取り上げ直す必要があると思います。簡単には賛同できないことも含めて。



*1:東浩紀氏が tweet に貼りつけたリンク先は文面が改変されたようですが、言及の際に問題にしていた文面は、以下だと思われます参照。→《5. 芸術の価値を福利厚生の一つとして社会に根付かせる》《地域アートと国内外の企業、行政組織、研究機関等を連携させ、組織のなかに「総務部アート課」をつくり、福利厚生の一つとして芸術を社会に根付かせることを目指す。》

*2:音楽、絵画、彫刻などのほか、演劇という集団芸術も

*3:「メインストリームでの真っ向勝負ができないから、病人と一緒にやってお茶を濁しているんだろう」などと、陰口をたたかれる類いのことなのか。

*4:三脇康生氏の発表によると、ひたすら真剣に芸術活動に取り組むことを、自覚的な臨床活動としてやっている施設もあるらしい。

*5:斎藤環氏がアールブリュットに接するに当たり、批評を禁止すべきだと言ったのは、まったくトンチンカンということになります。実際に動いている批評の事情を知らずに、ポーズを取っただけではないでしょうか。