アートや支援と《生活》は切り分けられるのか

芸術活動と生活については、

 物象化に支配された世界で、素材をどうするか

→人事権、人脈、マーケット的影響力を持つ人に抵抗しにくい。
「逆らったら生活できない」


私たちの世界において、圧倒的な主体は《価値≒資本》であって、
素材レベルをどうこうしたがる問題意識は、決定権を価値に握られている。


以下、佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』より引用。

  • 資本のもとへの労働の形態的包摂と素材的編成(p.362)
  • 形態による素材的世界の編成は素材的世界からの様々な抵抗を呼び起こさずにはいない(P.395)



私が芸術を必要とするのは、言語そのものまで物象化に支配された状況から、その条件を問い直し、自分でやり直すチャンスや技法を取り戻せるかという話であって、
物象化に迎合したまま耽溺したり、すべて諦めて順応的な計算「だけ」にするのであれば、それは芸術というより、シニカルな嗜癖にすぎない。


さらに厄介なのは、
こうした問題意識を持つ左派の人間関係は、それ自体が人治的な支配を及ぼす。「反資本主義」でまとまる人脈では、人事の決定権者の党派的支配が大きく、素材レベルの問題意識はつぶされる。



対人支援との比較

アートの領域については、

 作品活動と商品生産は違うのか
 芸術というのは、値段のつく「作品」だけか
 アーティストという自己規定は何に基づいているか

――こういう「線引き」が気になる。同様に支援については、

 支援事業と、労働力商品の生産は違うのか
 支援というのは、有料で区切られたものだけか
 支援者という自己規定は何に基づいているか



現代アートは、文脈を整えないとガラクタにしか見えないことが多い。そうすると、何かを「作品」として成り立たせるための環境整備やキュレーションも、芸術活動の一環ではないのか。
→同様のことが、支援事業にも言える。何かが「支援」として成り立つためには、環境整備が要る。それは人に会うことだけではなくて、言葉の環境を整えることであったり、行政との交渉だったりもする。「支援」というイメージを狭く固定しすぎると、かえって支援は成り立たない。――しかし、「支援」の固定イメージに合った事業にのみ予算がおりやすく、そこに人や意識が流れてしまう(生活しやすいので)。*1


2004年には「ニート」という言葉が流行し、数百億円規模の「支援」が組まれたが、悩む人は9割以上がそうした場所を利用しなかった(参照)。支援といっても、失業者が何十万円も払って、対人的にも技能的にも蓄積のない無償労働をさせられたり、けっきょくは元気な人にしか届かない活動だったり(参照)。*2


生活者として私たちの間に紛れているアーティスト(参照)は、こういう行政的硬直においてこそ真価を問われるのではないだろうか。いっぽうにロマンチックな「アート」があって、もう一方に予算枠があるのではなく、私たちの生活への対応を規定してしまうあれこれそのものに切り込んで、柔軟なやり直しを提言して見せること。その意味で、私たちの生活環境の改善者そのものであること。物神化された置物としてではなく、現在進行形の、活動形の何かとして。生活世界そのものの酵母として。


「生活がたいへんだから、私もみずからを物神化しなければ」では、順応者にすぎない*3。同様に、物象化や党派に迎合するだけのひとを、支援者と呼んでいいものかどうか。*4



*1:同様のことが芸術領域にもあるのではないかと推察する。

*2:私もスタッフとして、事情の一部を目撃した。――環境世界が硬直したお題目に終始するなら、弱者は「シニカルな狡猾さ」でサバイバルするしかない。

*3:労働力市場においては、みずからの物神化に成功した者が雇用を獲得する。「アーティスト」が同じことをしているとしたら、それは労働力商品として自分を売ろうとしている形になる。

*4:人をモノに還元する「キャラ消費」はここに関係する。斎藤環の特大のブーメラン:「キャラ消費で免責するな」