その議論は、快適な時空間を生み出すことに貢献しているか

 私たちは、何かが生じられる空間を集合的に作り出す必要を強調する。
 〔…〕 特別な領野を定義する必要がある。
 nous insistons sur la nécessité de créer collectivement des espaces où quelque chose puisse se produire. [...] Il faut définir un champ spécifique.



病院にかぎらず、私たちの生きる場所は、
放っておくと物象化(相互的なモノ化)に支配される。
言葉そのものや、時空間の体験のあり方まで含めて。



ドゥルーズの時空間?

以下のツイートで言及される多様体論や理念*2は、ウリ的な領野づくりに関係するでしょうか。――というのも、ドゥルーズの研究者で、上のような《集合的領野の臨床》に相当する問題意識を持つかたが、あまり見当たらないので。



数理的な言語を参照することが、言説の物神化や硬直に向かうだけなら、
《自分たちの生きる場のモノ化を、言葉ごと解きほぐす》
という趣旨には そぐいません。


そもそも、物象化を批判するはずのマルクス系の議論すら、
理論言語そのものを物神化したわけです。*3


私たちが生活する時空間の改善にとって、
《言語そのものの物神化》が、厄介な問題となっています。



今は転移は、《言う空間》ではなく、物神化によって維持されている

マーケット空間や雇用で成功しているのは、

  1. 崇められた言説の空疎な反復
  2. 「信者たち」の獲得
  3. 当事者ポジションのゲット

こうした事例ばかりに見える。いずれも、自己や言説の物神化です。


であれば、言説の多くがみずからの物神化を目指すのは、
フィールドの方針に従っていると言えます。


→そのような領野を、ドゥルーズ的な言説はどう扱うのでしょうか。


数理系の言説を参照して多様体や理念を論じるとしても、
「たんにメタに立つために」難解な話をしているなら、それは既存の、生活圏を硬直させる言説様式を反復しているだけなので、苦労して理解する意味がない――というより、有害ですらあるでしょう。



*1:【2015年2月23日早朝の追記】 この《言う空間(espace du dire)》というジャン・ウリのモチーフは、精神科医三脇康生氏のお仕事から学んだものです。▼言葉としては以前から目にしていたはずなのですが、本当に切実にモチーフとして腑に落ちたのはここ最近のことです。

*2:小林卓也氏のツイートで言及されている論文は、Martin Calamari,「Riemann–Weyl in Deleuze's Bergsonism and the Constitution of the Contemporary Physico-Mathematical Space

*3:権威化された言説である「史的唯物論」と、ひとり一人の実存の関係はどうなっているでしょうか(→「主体性論争」)。あるいはマルクスの理論は、その語り手と周囲との関係を、どのようにデザインしているでしょう。――歴史的経緯としては、マルクスの言説は大量虐殺に結びつきました。