私たちは、何かが生じられる空間を集合的に作り出す必要を強調する。
〔…〕 特別な領野を定義する必要がある。
nous insistons sur la nécessité de créer collectivement des espaces où quelque chose puisse se produire. [...] Il faut définir un champ spécifique.
病院にかぎらず、私たちの生きる場所は、
放っておくと物象化(相互的なモノ化)に支配される。
言葉そのものや、時空間の体験のあり方まで含めて。
ドゥルーズの時空間?
以下のツイートで言及される多様体論や理念論*2は、ウリ的な領野づくりに関係するでしょうか。――というのも、ドゥルーズの研究者で、上のような《集合的領野の臨床》に相当する問題意識を持つかたが、あまり見当たらないので。
最新号のDeleuze Studies(volume 9, number 1, 2015)が送られてきたので、合間にMartin Calamari "Riemann-Weyl in Deleuze's Bergsonism"を読む。大変面白く、勉強になった。
つまり理念は、それ自体において自律性と還元不可能を持つが、同時に、その経験的規定(現動化、分化と発生の過程)から切り離せない。これは(ワイルが例示する)数学と物理学におけるリーマンの多様体概念の(相互の領域への)非還元性と相補性に負っている。
数理的な言語を参照することが、言説の物神化や硬直に向かうだけなら、
《自分たちの生きる場のモノ化を、言葉ごと解きほぐす》
という趣旨には そぐいません。
そもそも、物象化を批判するはずのマルクス系の議論すら、
理論言語そのものを物神化したわけです。*3
私たちが生活する時空間の改善にとって、
《言語そのものの物神化》が、厄介な問題となっています。
今は転移は、《言う空間》ではなく、物神化によって維持されている
マーケット空間や雇用で成功しているのは、
- 崇められた言説の空疎な反復
- 「信者たち」の獲得
- 当事者ポジションのゲット
こうした事例ばかりに見える。いずれも、自己や言説の物神化です。
であれば、言説の多くがみずからの物神化を目指すのは、
フィールドの方針に従っていると言えます。
→そのような領野を、ドゥルーズ的な言説はどう扱うのでしょうか。
数理系の言説を参照して多様体や理念を論じるとしても、
「たんにメタに立つために」難解な話をしているなら、それは既存の、生活圏を硬直させる言説様式を反復しているだけなので、苦労して理解する意味がない――というより、有害ですらあるでしょう。
*1:【2015年2月23日早朝の追記】 この《言う空間(espace du dire)》というジャン・ウリのモチーフは、精神科医の三脇康生氏のお仕事から学んだものです。▼言葉としては以前から目にしていたはずなのですが、本当に切実にモチーフとして腑に落ちたのはここ最近のことです。
*2:小林卓也氏のツイートで言及されている論文は、Martin Calamari,「Riemann–Weyl in Deleuze's Bergsonism and the Constitution of the Contemporary Physico-Mathematical Space」
*3:権威化された言説である「史的唯物論」と、ひとり一人の実存の関係はどうなっているでしょうか(→「主体性論争」)。あるいはマルクスの理論は、その語り手と周囲との関係を、どのようにデザインしているでしょう。――歴史的経緯としては、マルクスの言説は大量虐殺に結びつきました。