「気持ちを分かってほしい」の暴力

「気持ちを分かってほしい」とかいうのは、感情的同一化を要求する暴力です。
これに共感を示すのが誠意ということになってる間は、むしろ権威主義は温存されます。


たとえば引きこもり問題では、「私の気持ちを分かってほしい」と言う人が、自分以外の「気持ち」を考えることは、ほとんどありません*1。それに迎合する臨床家や学者は、ひきこもり問題をめぐる「当事者性」の話をするとなると、「自分も引きこもりたくなる」という話しかできません。


これでは、ひきこもる場と就労の場、あるいはその両方を縛りつける「権威化された学問言説」という、自分たちの状況そのもののフォーマットの問題、それに伴う各人の当事者性については*2、まったく論じられないのです。


そもそも、「気持ちを考えてほしい」というなら、生活費を自分で稼ぎだす必要に疲労困憊する人たちの「気持ち」を優先すべき、という話にしかならないはずです*3。どうして、当事者ポジションを手に入れた途端、なんでもかんでもワガママを聞いてあげなければならないのか。そして逆にいうと、比較級で「より恵まれてる」と判断された側やそれをめぐって生じる問題については、もはや対応の必要はないのですか。*4


「どっちのほうがしんどいか」という比較級の話にしかならない《気持ち》論は、その議論のフォーマットそれ自体が暴力です。



*1:そういう人は、私が自分の名前を公開して以後の15年間に何があったのか、といった話にまったく興味がありません。▼彼らは、当事者ポジションに居直った「自分の気持ち」しか考えないので、「ほかの当事者の気持ち」を考えるスタンスは持っていないのです。――名詞形「当事者」に依拠するかぎり、こんな話ばかりになります。

*2:動詞形の「当事化」で扱いたいのはこれです。

*3:ひきこもる人より、それを支えて憔悴するご家族の「気持ち」を考える必要を優先させるべきでしょう。ご家族が破綻すれば、ひきこもる状況そのものを維持できません。▼「ひきこもりを全面肯定すべき」というなら、そのご家族が引きこもりたいと言ったときには、どうするつもりなのか。――それを認めないというなら、ご家族を引きこもり支援の強制労働に監禁するだけです。(これは、左派に典型的なダブル・スタンダードの構図です。じつは「ひきこもりの全面肯定」でもなんでもない)

*4:そこで言う「対応」というのが、(1)頭ごなしのお説教か、(2)ズルズルべったりの全面肯定か――その両極しかない、と思い込まれています。▼問題設定が《規範》にとどまるかぎり、そういう話にしかなりません。規範ではなく、《技法》の議論が必要です。