先日の拙エントリが参照されているのですが、
通りすがりにひどく罵倒されています。
このブログの人は、「思想研究」の対語を「実学」などと言っているので、その時点で話にならないのですけど、
私が引用した議論の場には「実学」「実定法学」「経営学」の語が出ていますよ。
そしてこれを言った稲葉振一郎氏は、これらの語を「思想」にぶつけています。
では君らは労働史や経営学や経済学が理解できているのかね?
濱口桂一郎氏の側に、ジャンル区分をめぐってのバイアスがあるようです。
既存ディシプリンでは扱えない問題状況があること
私は先日のエントリで、
- 身体医学のような意味での「実学」を目指すこと
- 指標とされるさまざまなデータを調べること
- 重大な影響力をもった過去の文献を調べる「思想研究」
――こうした区切りへの安住を自明視することはできない、と言ったのです。
既存のディシプリンを自明視しては、労働を論じる側が、
《みずからの労働のあり方》について、論じなおすことができません。
これでは、論じる側も、論じられる側も、《技法》の試行錯誤ができません。
集団的に陥っている《働きかた》――それは、濱口氏ご自身のおっしゃる「メンバーシップ」*1にとっても、重要な要因でしょう。
私の議論には、
メンバーシップの現状を分析し、そのつど組み替えながら集団を営む
という、技法論的な趣旨が含まれています。*2
逆にいうと、議論のジャンル分けや、一つ一つのディシプリンをあまりに自明視しては、言説の生産様式が固定されることの有害性も、見えてきません。*3
私の議論をバカにした濱口氏は、
思想研究にも実証科学にも、ありきたりな精神医学にも対応できていない、《働くことができずにいる人たち》について、どんな議論を提出できるのでしょう。
「思想研究の外に出る」という思想
先日の論争で、「思想系」のおひとりである佐々木隆治氏の反応:
hamachanも指摘しているような皮肉にはもう一つあって、議論の当事者の一人である私はむしろ思想の力を過信する論者にたいして批判的なスタンスをとっているということ。それこそマルクスの哲学批判の意義を強調し、具体的な現実分析の必要性をずっと主張してきた。
だからといって、労働を社会思想的観点から分析することが有益ではないということにはならない。もちろん、社会思想的分析こそが決定的に重要であり、実証的分析など必要ないなどと主張すれば批判されるべきであるが、そんなことは誰も言ってないではないか。
たしかにマルクスは、当時ドイツで隆盛を誇っていた哲学的な思想潮流について、
「思想研究をすることで思想に反論する」という形を採らずに、
端的に経済研究にのめりこんだのでした。
佐々木氏が「hamachan も指摘しているような皮肉」とおっしゃるのは、↓これですね。
私の目からは、ここで思想系をdisっているようにみえる稲葉振一郎氏こそ、一番現実社会の「思想」よりも思想家の「思想」にばかりかまけている人に見えるからで、ここでの稲葉氏の発言自体、一種の近親憎悪というか、同じ思想系同士の「そのブドウは酸っぱいぞ」に響くところがあります。(濱口桂一郎『労働と「思想」』)
思想系を批判する稲葉氏じしんが、現実社会を無視しているじゃないか、と。
「学説オタクではダメだ」ぐらいの意味でしょうか。
カール・マルクスは、「思想家の思想」を研究して終わらせるつもりがなかった、という意味では、「思想研究をしていた」とは言えません。しかし、経済学説に現れた思想については、しつこく問題にしていた――とは言えそうです。
関連して、濱口氏の発言で興味深いのは以下の部分でしょう。
私にとって思想家の「思想」が興味をそそるのは、それがケインズの言う意味で、後代の現実社会のプレイヤーをその思想の奴隷とし、現実社会を動かしてしまうことがあり得るからです。労働の世界はとりわけそれが顕著であるだけに、思想家の「思想」抜きに現実社会研究もあり得ないのですが、その限りということになります。「本当に正しいマルクス解釈」なるものに関心が持てないゆえんでもあります。
数理科学のようにテクニカルな学問に見える経済学も、
その基礎づけにおいて、何らかの《思想》を生きている。
であれば、稲葉振一郎氏を《思想家の「思想」にばかりかまけている》と批判する濱口氏も、すでに何らかの「思想」に毒され、それに気づかないまま、自分の正当性を構築しているはずですから――そこを分析する必要がある。
そういう分析を目の前で共有する技法が、労働参加において《臨床的に》機能するのです。少なくとも、そういうことを話題にできる言説環境が要ります。
結論より前に、議論の方針そのものの問題
ある議論が、
- 状況の悪化に加担している努力なのか、それとも、
- 状況を改善するほうに回っているのか。
それが、議論の結論部分ばかりでなく、議論方針そのものの問題だとしたら。
――このモチーフに気付けている人が、今のところほとんど居ません。
【2月4日の追記】
自分たちのディシプリンに凝り固まって、それをやっていれば「業績も雇用も確保できる」「大事なことはこれですべて」と思い込んだ人たちは、それでは対応できない現実については、まったく考えようとしません。――この人たちにとっては、実際に生じている事態というのは、存在しないことになっている。
労働を専門に研究している人たちですら、こんな状態となると――どこに攻め込むべきか。ふつうに議論を続けても、誰も聞いていません。