「決定的な証拠ほど、公開しにくい」というジレンマ

 本件がセクハラであるのであれば、橋本聖子氏と高橋選手のキスシーンというのは、まさに高橋選手が性的に蹂躙されているシーンである。〔…〕 被害者が若き女性スケート選手であれば、犯行現場の写真はまず報道されないはずである。〔…〕
 被害現場の写真が、堂々と報道されてしまうのは、結局は男性にとってあの程度はセクハラでもなんでもないと考えられてしまっている男性差別の根深さゆえである。

    • 大事な論点を出されているので、これを話題として出されたことそのものは(関心を持つ一個人として)大歓迎です。いろんな立場のかたが、あれこれと意見を出し合って議論を続ける必要のある事案です。他人事にできる人は居ない。▼以下は、その上での反論です。



「写真を公開・報道すべきではなかった」というのは、そもそも本件が「セクハラ・パワハラ」としてしっかり認知された後になって出された見解であり、こうした問題のいちばんの難所を捉え損ねています。*1


性愛の絡む事案では、《証拠》がない場合、
被害事実そのものを信じてもらえないことが多い。*2


とくに今回は、「男性が女性から被害を受ける」という、女性の被害以上に認知の進んでいない構図である上に、被害者であるはずの高橋大輔氏が、そのような被害など「なかった」と証言し、謝罪までしています(参照)。*3

発覚後の橋本聖子氏およびスケート連盟の対応を見ても、証拠写真が公表されていなければ、あるいはそもそも撮影されていなければ、問題として議題に上ることすら難しかったでしょう。参照1】【参照2

証拠がない(あっても公開できない)ために、被害事実そのものを信じてもらえないケースは、数えきれないほどある*4。ですから、ひどい写真を公表し、大半の人が被害事実を確信するに至った後になって、「あれは公表すべきではなかった」というのは、議論の時系列を無視した言い分です。


今回の事案であらためて、《動画・音声・写真などの証拠が、どれほど重要か》を思い知らされました。



そこまで踏まえたうえで、

被害事実の証拠になるような動画や写真は、それを公開することそのものが、二次被害になりかねない」という難しさを考える必要は残ります。


それは実は、加害側が(隠蔽のために)積極的に利用するメカニズムでもある。*5


そう考えると、「公開できたのだからセクハラ扱いされていない」という前提を無条件に固定するのは、危険に思います。(公開できた時点で、たいした事案ではないことになってしまう)
重大な被害であることを受け止めたうえで、「説得材料としてやむなく公表する」スタンスだってあり得るし、場合によっては、それは必要なはずです。

    • 「理不尽な事情の公開が、かえって被害側に不利益をもたらしかねないので、黙ってしまう」――こういうメカニズムをどうすればよいか。硬直した運動イデオロギー規範意識ではどうにもならないし*6、ましてや被害者の自己責任には還元できません。問題提起そのものがやりやすいような環境づくりや制度設計を、地道に検討する必要があるはずです。▼これもやはり、(規範論を含む形での)技法の問いです。


*1:そもそも浦部氏は、「あの程度」という理解をどこから得たのでしょう? 報道された写真ではないのでしょうか。

*2:「証拠がない」というのは、ハラスメントの加害嫌疑をかけられた側が、身の潔白を証明できない理由にもなります。特に男性が疑われた場合は、「疑われた時点で終わり」「事実関係の検証すらされない」という傾向がある。

*3:被害者側が被害事実を否定せざるを得ない、それどころか謝罪せざるを得ない状況に追い込まれるのも、パワハラ事案では典型的でしょう。

*4:今回のツイッター上の反応でも、「大したことないと思っていたけど、写真を見て考えを改めた。これはひどい」という声を繰り返し見ます。私も、写真を見て確信を深めたうちの一人です。

*5:強姦の加害者が、その状況をわざわざ自分で撮影し、「口外したら、これをネットに公開する」と脅していたケースがあります。▼この事案は、被害者ご本人がホームページで証言を公開しましたが、犯人を特定できるような証言はしていない 被害事実そのものが「狂言ではないか」と疑われたりもする。

*6:むしろそれは、ダブル・スタンダードの温床です。規範の体裁を守るために、事実関係を無視する――左派はそうやって説得力を失ってきました。