6月9日の拙ツイートより:
《そこから再帰的に、かつて「主体」と呼ばれた広がりを創設すること》
――ここを「良くわからなかった」と書いたことに対して、廣瀬浩司さんからお返事を頂きました。▼大事なヒントを頂いたので、引用しながら少し連投します。(2014-06-09 17:50:14)
- QT @parergon2 >《[自然=人工的制度]を逸脱する「意味」 がなんらかの形で「記号」となるためには、 それに立ち会う(個人的ないしは集合的な)「誰」が必要なのですが、》
→ふつうは「自分」とか「主体」と言って終わる (2014-06-09 17:53:05)
- QT @parergon2 >《その「誰」は、超越論的主体ではなく、 「超越論的領野」として時空間的に開かれた広がり(と境界)を持っている》
▼名詞形当事者に基づいた「自分語り」← 超越論的主体(カント)
▼動詞形の「当事化」← 超越論的領野(ラボルド的?)
(2014-06-09 17:59:17)
「超越論的主体」ではなく、「超越論的領野」と言えばいいのだ――こうした言葉づかいは、これまでにも廣瀬さんのご論考で読んでいたかも知れないのですが、今回初めて、《当事者/当事化》というモチーフとの関連で整理できたと感じました。(2014-06-09 18:06:02)
記号を、主体ではなく、領野との関係で語る。
――これだと、「記号のあり方そのものがすでに支配的様式に従っている」という Guattari 的モチーフにも直結します。▼いま支配的な言説では、ここがさっぱり語られないがゆえに、《語る営み》それ自体の傾向が帯びる政治性に気付かれない。(2014-06-09 18:11:27)
語る営みについて、当事化的に――つまり、超越論的領野を開くあり方で、論じ直すことをしない。語りの態勢が固定され、調子に乗って「うれしがる」ような語りが蔓延している。▼傲慢きわまりない、語りの態勢の固定。(2014-06-09 18:14:32)
《自分》という、超越的に見える纏まりの地位と条件を問い、やり直しを迫られるという意味で、ここに「超越論的」という言葉を持ってきてよいはず(Wikipedia)。
ただし現状が迫っているのは、主体化のありようそのもののやり直しだから、
カント的な超越論的主体を前提に話を進めることはできない(参照)。
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- 誰かを「当事者」と名詞形で措定することは、(1)名指された側を超越化すると同時に、(2)名指す側の言説をも超越化する。ここではいつの間にか、どちらへの批判も許されないことになっている。これは最悪の欺瞞。*1
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- 必要なのは、対象者と言説をどちらも超越化する「超越的な振る舞い」ではなく、対象の条件を問い、論じる言説をも考え直さざるを得ない《超越論的な》振る舞いである。
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- 「体系的な哲学理論 vs 政治実践」と分けてしまっては、哲学理論と政治実践は、どちらも超越化されてしまう。これもひどい欺瞞だ。▼哲学体系は、ある主体化の方針を超越的に固定している。また、無-理論的に見える政治実践も、ある固定された主体化方針を生きているゆえ、超越論的吟味の対象にならざるを得ない。
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- 主体化のスタイルをめぐる格闘や、そこでの具体的な当事化は、そのままで政治活動となっている。
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- 必要とされる主体化の方針を、「超越論的領野-化」と、動詞的に言ってみたい。時間的に展開される、おのれ自身と関係づける空間化。ここで「検証」と、検証フィールドを開く活動そのものは、同時に生成せざるを得ない。*2――このような顛末を、私は「超越論的当事化」と言いたい。
*1:ひとりの論者が、自分で自分を《当事者》と名指す場合、(1)「名指された側」の超越性と、(2)「名指す側」の超越性を、都合よく使い分けることになる。当事者としてふるまうことが都合よければ「私は当事者」と名乗り、学者としてふるまうことで権威ぶれるときには「私は学問的訓練を受けている」と言う。「当事者」と「学問言説」のどちらもが、条件づけの検証を受けない。▼貴戸理恵の「Nさん問題」に生じていたのはこれであり(参照)、今も複数の研究者が、この使い分け(超越性の同居)を悪用している。
*2:検証フィールドを条理的に固定された時空間では、それに合わせた検証しか出現しない。作業にふさわしい時空間の生成と、検証作業の生成は、同時に起きざるを得ない。