環境の官僚的体質をどうするか――アーサー・クラインマン講演会

会場は立ち見が出るほど満員だったが、
講演そのものは、あまり面白いものではなかった。

●医師と患者の関係を「人間的に」
●疑問があったら言葉にしよう

こういったことは、いわば当たり前のイデオロギーであり、
わざわざ時間を割いて聞きに行くようなことではない。


ありきたりな規範的スローガンを、みんなに共有できる形で確認させるのが、有名人の機能かもしれない。――じつは講演そのものにも期待しつつ、クラインマン氏の周囲がどういう事情にあるかをフィールドワークするつもりもあって、講演会に参加した。


「価値に基づく感情」としての感性(sensibility)は、時代とともに変わってゆく――という話が冒頭にあったが、なぜか「人間的」の中身は問われないままだった。質問時間まで含め、人間的でなくなるのは良くない、という話に終始した。「人間的」という価値は変わらないのだろうか。


クラインマン氏の議論は、70年代の反精神医学系論者なら誰でも言ったようなことだ。それがそのまま反復し、その反復に誰も気付いていない――という不気味さ。
立岩真也造反有理 精神医療現代史へ』では、紛争の肝腎なところに差し掛かると、すべて「ここから先はわからない」になっていた。医療・福祉まわりの言説は、反-精神医学の歴史的経緯を単にトラウマ化してしまい、work through(内在的に消化)できていない。だから、何のひねりもないベタな理念がそのまま復活し、左翼系の(民青のような)センスで合唱され、そのことへの疑念や、ディテールを伴った話が抑圧されてしまう。


大きすぎるPC的スローガンは、ガス抜きとなり、
環境の官僚的体質を補完する。*1
きれいな理念を仲間内で確認しあい、
現状への分析をきわどく展開する話にならない。


たとえば現実には、精神科医を「向精神薬自動販売機」みたいに考えて、いわゆる人間的対応をウザいと考える患者さんも居る。→「人間的」という言い方でイメージされるものがどういう内実にあるか、そのイデオロギーそのものが新しい監禁になっていないか。


考えるべきは、「理想があってもなぜできないか」「具体的にはどういう方法論が必要か」であるはず。今回の講演は、「心がけがあれば改善できる」みたいな話に終始した。時間があれば具体論になったかもしれないが、いきなりディテールに入って欲しかった。



興味深かったこと

  • アメリカの医学部では、1年生よりも4年生のほうが問診がヘタ。勉強すればするほど、患者さんを人間として見れなくなる」(クラインマン氏)
  • 技術化やカテゴリ化の進行による極端な官僚化によって、患者は《自分の病気を奪われている》というモチーフを持つことになる



講演会イベント終了後、精神科医や看護師、音楽療法の研究者などとお話をご一緒したのだが、ここで伺った体験ディテールが、とても勉強になった。たとえば、病院内の人事評価システムについて、など。→評価システムの設計図を変えることが、環境改善の重要な鍵になるはず。



*1:クラインマン氏は、「フロイトマルクスよりウェーバーが大事」というのだが、ではウェーバーの専門家は官僚的ではないのだろうか。→「論者じしんが、論じるべき問題の一部分であり、加担者」という状況を改善しなければ。そしてそのためには、理念だけを叫んでもうまくいかない。