練習と稽古

先日のエントリのことでお話をご一緒していたら、
精神科医・美術批評家の三脇康生氏より

 試合より、練習のほうが重要

というアイデアを頂いて、そこからずっと考えています。


練習というのは、非常にふしぎな概念です。
たんなる精神でも、たんなる身体でもない。
概念はふつう、一挙に丸ごと手に入るものですが、練習というのは、時間的なことを設計しなおさなければならない。概念そのものに、素材と時間要因が同時に含まれています。*1


イタリア精神保健のイベントで感じたことでいうと、
いくら素晴らしい議論を誰かがしても、それを受け止める準備ができていなければ、なんだか綺麗ごとの理念で終わってしまいます。だとすると、重要な議論をそれとして持続できるようになるためには、それに応じた、集団的な《練習》が必要にもなるでしょう。


――長い時間をかけて、いろんな方とご一緒したいような、議論のふくらみを感じています。三脇氏がおっしゃった趣旨と、ひょっとすると重ならないかもしれませんが*2――むしろこれは、各人が自分の理解を通じて、自分の事情をやり直すチャンスなのでしょう。


というわけで、少しメモ。



本番は、「門の向こう側」?

たとえば、私がこだわり続けるカフカ「掟の門」(参照)。
ひきこもる人は、門の向こう側を 試合(≒社会)、門の手前を 練習(≒社会ではない)と考えがちですが、こんなふうに考えてしまっては、自意識を強めるだけです。状態を悪化させる思考スキームと言える。
むしろ、「本番≒社会はすでに始まっている」として、今いる場所をやり直す必要があります(練習でありつつも、同時に本番でもある何かとして)。


あるいは引きこもる人に特有の、非日常への強さ。
日常に嵌め込まれたミッションには異様に弱いのに、環境全体が破綻すると、妙に元気になる(参照)。ここには、本番と練習をめぐる奇妙な事情があって、工夫のしどころが残っていそうです。


――ところで、三脇氏の言われた「練習」は、
概念としてなんだか西洋風に感じませんか。
もう少し和風なのは何だろうと考えて、


稽古」を思い出しました。

リンク先に、
「稽古」及び「練習」の語誌的研究》(南谷直利、北野与一)
を発見。語源周辺の整理として、たいへん参考になりました。


また『増殖難読漢字辞典』によると、
稽という字は、「神を迎えて神意を(はか)る」の意から、
《考える》という意味がある。
→稽古というのは「(いにしえ)(かんが)う」で、元来は「昔のことを考え調べる」。



「稽古」「練習」の、概念の使い分け

武道や芸術の領域で、これらの言葉はどう使われているのでしょうか。具体的な事例をネットで探しました。いくつか引用します(本エントリ内の強調はすべてブログ主)。*3

 また先生はただ無駄に一生懸命やる練習と真剣に考えながらする稽古の違いをすごく明示するのです。これは本当に厳しいです。(「稽古と練習は違う!という言葉☆なぎなた

 「稽古」とは古(いにしえ)の事柄に照らしわせながら、物の道理を学ぶこと。「練習」は、技能・芸事などが上達するように同じことを繰り返し習うこと。(「”稽古”と”練習”の違いについて空手道

 真剣に先人の知恵や知識を学び取ろうという態度で臨まなければならないのが稽古であり、そこに自分の工夫や考えを足したものであっても、同じ真剣さを以て行うものは「稽古」と言っていいのでしょう。〔…〕 師範は次のような言い方で私たちに注意してくれたことがあります。「それじゃあエキササイズ(exercise)だよ!稽古じゃないよ!!」(「稽古とは空手道

 稽古には、基本となる型、規範、手本があり、それに近づくための努力、研鑚、という意味があります。練習は規範となるものがあってもなくても自らの技能を高めるためにすることという意味 (「稽古と練習の使いわけ又は違いは何ですか?Yahoo!知恵袋

 先生は、稽古、練習をはっきりわけておられ、だらだらと気を抜くと、「そんな練習なら止めてしまえ」と厳しく指導されました。逆に、自分でも充実できたと思ったときは、「ヨシ、良い稽古だ」と誉めてくれたのです。いつの日か、先生は私に稽古と練習の違いについて話してくださいました。曰く、稽古とは精神を鍛え、内面的に向上すること。練習とは、ただ単に肉体を鍛え、技量の強弱を計ることである。(「稽古と練習の違い剣道

 「練習」とは上手な人(大抵は先生や先輩)から教えを乞い、自身が学ぶことであるのに対し、「稽古」とは自分の過去に悪かった点を(自分で)振り返り、試行錯誤しながら自身を練り上げることなのです。(「稽古と練習剣道

 私が鼓を習い始めたころ、よく指摘されたのが言葉遣いだった。「今日の練習」と言った私に、「お稽古よ!」と。歳月を経て、外国人の友達を鼓のお稽古に誘った際、翻訳しづらいこの「お稽古」をどう説明するかで悩んだ。〔…〕 すぐさま能楽師の先生方に尋ねてみたら、表現は異なっていても、考え方は同じ方向を示していた。〔…〕 お稽古の場で、師匠や先輩は「教える」のではなく、「伝える」のだ。本番ではない練習を80%の力で行なうとしたら、お稽古は常に100%で行なうべきものだ。(PDF「お稽古と練習鼓、能楽

 『稽古照今(けいこしょうこん)』という言葉がある。この ”稽” という字は 「考える」 という意味がある。つまり 「今について昔と照らし合わせ、考えなおしてみる」 という意味。また、千利休によれば、『稽古』 には、「一から十まで学んだ後、再び一に戻る」 という意味があるそうだ。(「稽古照今少林寺拳法、茶道



ジャンルや個人で微妙にニュアンスは異なるものの、

    • 練習というと、単純な反復作業
    • 稽古というと、先人のお手本を参照した、思慮の入った作業

というぐあいに、使い分けておられるようです。いずれも身体的な負荷を予定していますが、努力のスタンスが違います。



思想として

稽古というと、ひきこもり論や若者論でつねに出てくる、

 (a)気合い主義や精神主義 (b)封建的・DV的な抑圧

との関連も気になります*4《稽古》という言葉を活かそうとするなら、ここはていねいにやり直さないといけないでしょう。


上の事例引用で、「お稽古」の翻訳に困っておられましたが、
たしかに西洋語で「practice、training、exercise」と並べても、どうも《稽古》のニュアンスに合わない。日本語の概念体系や体質と、他の言語(ひとまず西洋語)のそれが、違っていそうです。
→西洋思想を直訳的に輸入しても馴染みにくいですが、《稽古》概念を豊かにすることで、体に染みついた議論を耕せないでしょうか。



環境管理社会における稽古?

野球にしろ武道にしろ伝統芸能にしろ、
やるべきことがはっきりしています(試合や舞台)。
だからこそ、「練習」「稽古」が意味を持つ。
しかし日常では、そこが曖昧になります。


《やるべきこと》が分節され、位置づけられていないと、
承認もされにくいですね。お金の流れも生まれない。


そうするとこれは、再生産の問題になります。
何をやって良いかが分からず、評価もされないなら、
努力を受け継ぐ《稽古》は、続いていかないでしょう。*5


あるいは「稽古」から私が連想したのは、
規範の内面化を要求する規律訓練でした(参照)。
→では、ドゥルーズ東浩紀が論じたようなコントロール社会*6において、「稽古」はどんな積極的な意味を持ち得るか。


私がこだわっている制度分析や schizo-analyse は、システムの自動的作動とは別の、手作業にあたるような引き受けですが、それは環境管理の社会において、《稽古》できるものでしょうか*7。あるいは《稽古》概念を位置づけなおすことで、西洋の議論を鍛え直せるか。



三島由紀夫と稽古

石原慎太郎三島由紀夫の日蝕』pp.38-39 より、三島氏が、日本大学ボクシング部(小島智雄監督)を訪れたときのこと:

 さて三島氏のスパーリングはこれは大層なものだったというよりない。〔…〕 事前のパンチングバッグやサンドバッグへの打ちこみは一応の体は成していたが、肝心のスパーリングになるとどういう訳かパンチがストレートしか出ない。〔…〕 見かねて私は、
 「フック、フック」
 叫ぶのだがどうにもままならない。
 〔…〕
 第二ラウンドは小島氏が顔を差し出すようにして打たせ、パンチがきいたようによろけてみせたりしたが、それが励みになったか、周りからかかる声に気負って三島氏がストレート一本のラッシュをかけると、今度は小島氏が軽く身を捻りながら、「それいくぞ」と声をかけての反撃で二つ三つパンチを放つ。それがガードの空きっぱなしの三島氏をまともにとらえ氏はよろめいたりしていた。
 シャワーを浴びて出てきた三島氏は今までとはうって変わった上機嫌の饒舌となり、部員たちとしきりに何やら声高に話しあっていたが、私がいたことにようやく気づいたようなので、
 「なんでフックを打たないんですか、ストレートばかりで」
 私が言うと、やや不機嫌そうに、
 「フックはまだ習っていないんだ」
 氏はいった。




ポストモダン云々は、練習や稽古を無視

稽古というと、なんだか前近代的に見えるかもしれませんが、
むしろ練習・稽古論が右派系に独占されたように見える状態は、それ自体がまずくありませんか。生活者としては、そっちが重要ですから。


左派・リベラル系には《理念》はあるのですが、《稽古》の発想がありません。「こうすべき」ばかりがあって、だらしない身体でどうすればよいのか、という議論は、ほとんど見られないのです*8。――そこが、悪しき「ホンネ主義」に掬われているように思います。



*1:廣瀬浩司氏が「定義を拒否する」という《肉 chair》概念や(参照)、岡崎乾二郎氏の技法論(参照)を思い出しています。また山森裕毅氏の『ジル・ドゥルーズの哲学: 超越論的経験論の生成と構造』は、「習得」を核に据えていました(参照)。

*2:三脇氏が出されたのは、野球の前田智徳選手の例でした。それが何を意味するかは、お仕事で明らかにされてゆくのだと思います。今後の展開についても、ぜひ取り組みをご一緒できると嬉しいです。

*3:日本語ネイティブがどういうニュアンスで使っているかを知るために、実際の使用例を羅列しているだけです。それぞれの発言を権威付けて、「本当の違い」を確認しているわけではありません。

*4:さいきんも全日本柔道連盟が、暴力の問題でニュースになりました。

*5:たとえば、なんでもありのように見える現代美術の領域で、「稽古」という言葉は使われるのでしょうか。いくつか見聞きする概念操作には、西洋的なニュアンスを感じています。

*6:規律訓練ではなく、環境への工学的管理によって維持される統治(参照

*7:稽古≒再生産ができないなら、運動としては尻すぼみです。たとえば精神分析ラカン派は、いわば精神分析の「稽古」として、教育分析や「パス」を用意しました。

*8:わずかな例外が、たとえば竹内敏晴氏や、内田樹氏でしょうか。