批評が臨床であり、責任を問われていることを真に受けるために

行ってきました。大阪です:

 ★『むかしMattoの町があった』自主上映会 特別企画(参照
 イタリア精神保健改革をもっと深く知りたい!



理念的な目標については、映画を観てペッペ・デッラックア氏の講演を聴きに来た時点で、あるていど共有されていると思うのですね。「患者さんを人間扱いする」とか、「精神科病院なしでやっていけるはずだ」とか。
それをイベントで反復するだけでは、左翼のイデオロギーを仲間内で確認しておしまい、みたいなことになりかねない。その意味で、「前提のスローガンはもういいから、具体的な細部の話をもっと最初からしてほしかった」という感じはありました。



介入の思想と実務

ペッペ氏はいくつも論点を出されましたが、*1
決定的だったのは、地域住民とのかかわりや、強制治療に関しておっしゃった、次の点です(大意):

 交渉と関係性のゲームをやる

 強制的な治療や注射が、必要なこともある。けれども、「最後に何をやったか」よりも、そこに到るまでに何をやったかが重要。



ペッペ氏の話にうなずく人は、「患者さんを人間扱いする」というテーゼは抱えています。――しかし、たいていはそれ止まり。私たちの環境や自分の発想が何に規定されているかは、考えません*2。 ペッペ氏は、そこに介入しようとしていた。


「交渉と関係性のゲーム」「プロセスとして何をやったかが重要」――この考えは、生活者にとっての批評というべきものに見えます。どこかの医者や批評家のように、上から目線で「当事者を全面肯定する」のではない。かといって、いわゆるホンネ主義でもない。具体的にモミクチャになる中で、それでも続く批評的緊張があり得るとしたら、どんなものか。その条件は何か。ペッペ氏は、そこにこだわろうとされていました。



議論のための状況づくり

これを集中して論じるには、日本側の聴衆が、あまりに準備されていません。
だから、実は大事なポイントにかかわった議論でも、
「そりゃ、そうだよね」ぐらいで流されてしまう。*3


それゆえ、

 重要なポイントを最初から論じられるための状況作りをどうするか

というのが、課題になると思います。


「患者さんの人権を守れ」とかの、間違ってはいないが大きすぎるスローガンを反復しても*4生活者がリアルタイムに生きざるを得ない批評≒臨床は、扱われていません。

批評と臨床の関係は、思想や哲学でも扱われますが*5、この問題を言葉遊び以上に受け止める人は、ほとんどいません。むしろこのモチーフは、メタなポーズを気取る知的言説のさなかで、つまり環境のロジックによって、禁じられています。*6



批評という臨床実務に向けた、体質改善

イベント翌日のTBS『報道特集』では引きこもり特集をやっていたのですが(参照1)(参照2)、そうしたことを思い出しながら観ていました。


臨床が、批評と共にしかあり得ないとしたら、
それは単なる全面肯定や、単なる罵倒ではなくて、
残酷な介入や、駆け引きの要素をも伴うはずです。
逆に言うと私たちの環境は、
生活にともなう批評において、あまりに稚拙なレベルにある。


もっと突っ込んで言えば、
ひきこもることしかできない人や、病気の症状でうまく生きられない人について、それを《制作の破綻》として、位置づけられないでしょうか。つまり作り手として、あまりに《拙劣である》がゆえに、現状の破綻がある。だとすれば介入は、批評的厳しさを生き直すことであり、制作をめぐる相手の失態に、割って入ることになる。


いや、これもまだ不正確です。
批評や理論は、そのつもりがなくとも、こうした介入に《なってしまっている》。知的言説は、生活環境の一部なので、「理論は理論、生活は生活」などとは、絶対に言えません。現に悪影響がある。


いまメジャーな知的努力は、単にメタな整理*7生産様式を支配されています。生活のなかに別の時間軸を導入したり、つき合いをやり直したりするような回路には、開かれていません。


この知的事業の監禁が、最も深刻です。そのことに、多くの人が気づいていないのですが(忘却の忘却)、今回のイベントは、個別論点に取り組むことはしても、言説そのものがそうした論点を排除している可能性は、扱えていませんでした。いくら大事なことを論じても、知性の現状がそれを受け入れられない体質をしているなら、まずは言論の体質改善が必要なはずです。



スローガンと無力感の往復――ではないもの

今の私たちは、

  • 理念的に分かりやすすぎるスローガン と、
  • 「結局はどうにもならない」という無力感

のあいだで、宙吊りになったままです。*8


そのどちらでもない試行錯誤を、できるだけ多くの皆さんと共有したい。――今回の集まりを企画された皆さん(「180人のMattoの会」)とは、そういう取り組みをご一緒したいです。



*1:私はイタリア語が理解できないので、総合的な評価はできませんが、通訳の松嶋健氏は、理念と実務が入り組んだ複雑な話に文脈上の解説を加えていて、わかりやすかったです。

*2:こうした言説状況では、《当事者を尊重せねばならない》というイデオロギー専制ばかりがあって、それが批評を禁じているという抑圧については、放置されます(参照)。私が名詞形「当事者」概念の横暴を問題にするのは、このためです。

*3:精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』から気になっていることですが、制度論的な、それゆえ批評と臨床とが強く結びつき、どうしても切り離せないような議論では、重要な話をしているのに、それがそのようには見えない、というジレンマがあります。それが今回も際立っていました。

*4:それはけっきょく、論者じしんのナルシシズムの反復であり、集団のなかでの自己保全になっている。

*5:ドゥルーズ/グァタリなど

*6:思想家やそのモチーフの列記も、知的に洗練された詩的惑溺も、論理演算による正義論も、生活者としての批評にはなりません。たんなる病跡学も、メタへの撤退です。

*7:生活の素材的葛藤とは無縁の、スタティックな理解

*8:むしろスローガンの反復は、それ自体が絶望の反復にも見える。