自分の現実をやり直すために――立木康介の症候論



著者は、さまざまな作品や社会現象が
以下の【1】にあることを危惧し、【2】を勧める。*1

【1】  【2】 
羅列(メトニミー)  置き換え(メタファー) 
精神を欠いた無意識  抑圧無意識 
心身症  症候 
生物身体  リビドー化された身体 
デジタルな「記録」  アナログの「記憶」 
直接提示・露出*2  代理・表象 
嗜癖・固着・倒錯  創造・多様・神経症 
モノの「対-象」化  対象の喪失
分離 近しさ
若者文化への追随  セクシュアリティの構造化 
恋愛・結婚への政策介入  性と生殖は別もの 
制御する透明性  闇 



著者・立木康介(ついき・こうすけ氏は、ほんらい隠されてしかるべきものが露出される傾向を、さまざまな事例を挙げて論じる(政治家の夫婦生活、タレントの犯罪告白、死体を陳列するアート作品、ネット上の自分語りなど)。すべてが「明らかにされる」いっぽうで、考える必要のあることには全くアクセスできない――これを著者は、

    • 「思い通りに操作する」の全域支配 → 闇の消滅 →《分離》

とまとめる*3。あらゆることを透明化する社会において、かえって私たちは、アクセスの権限を失う。


この立木氏の着眼を、まずは確保したい。

そのうえで、私にはいくつか違和感が残った。


簡単にまとめると、次のようなことだ。

    • 死体や私生活を隠すことを規範として復活させれば、私たちはもう一度、大事なことを論じられるようになるのだろうか。彼らがそこで露出したのは、露出の価値すらないようなことであり、逆に言うと、隠す価値もないように思われる。あからさまな露出で見えなくされたのは、《メタファー≒抑圧》*4で確保されるべきものではなくて、私たちの条件をめぐる分節ではないだろうか。つまりここでは、分析の方針が問われているのであり、ということは、見えにくいとされる《暗部》の設定が問われている。
    • いわゆる「自分語り」においては、自分のことを話せば話すほど、自分の条件が見えなくなってしまう。涙ながらに自分の不幸を話す人は、むしろかえって、自分の状況が見えなくなる。つまりここでは、論じるべき《自分》の設定が問われている。*5



「ほんらい隠されるべきだから隠せ」というより、そもそもそれは、わざわざ隠すほどの価値がない。そこで必要なのは、隠すことで価値を復活させることではなく、むしろ見る価値がないことを知った上で、具体的な配慮をすることではないだろうか。その配慮は、大文字で語ることはできない。条件はそのつど異なる――その条件を論じられる環境整備が必要であって、《欠如を復活させることで欲望を永続化させるべきだ》*6というのは、なにか根本的に息苦しい話になってしまう。見る価値のないものであれば、隠すことで価値を永続化させる振る舞いそのものが転倒している。


たとえば死体だが、
高齢者は昔、自分の家で死んでいた。死はあからさまで、細やかな配慮に触れていた。しかし現在、死は自動的なルーチンに隠蔽され(分離)、私たちの配慮に触れられない。*7


立木氏の嫌悪した死体の直接展示参照)は、単なる露出趣味というより、

    • システムの自動的作動から排除されたものが、私たちの欲望や生活圏に回帰している*8

と見たほうが、当たっていないだろうか。やはり生活圏に回帰した死体として、私は自殺(電車への飛び込み)や過労事故・異状死の増加などを思い出すが(参照)、これは「死体を隠せ」というスローガンでは、対処したことにならない。――むしろ死は、徹底的に隠蔽されている、と言うべきだろう(死の隠蔽による死体の回帰)。


必要なのは、システムの自動的作動に対し、《自分たちの配慮》の編成を取り戻すことであり、そのための条件に、自覚的になることだ。私たちの状況は、条件を自覚する努力そのものが禁止される方向に動いている。



「サントームに同一化する」という処方箋

立木氏の基本的な立場を理解するために、《サントーム sinthome》*9という分かりにくい考えについて、少し本書から引用しておこう。

 今日のラカン派が、いまだに1970年代の症状論がもたらしたインパクトの余波を受け続け、症状の

  • 意味論(セマンティック)」(症状が何を意味するかを読み解くこと) から
  • 語用論プラグマティック」(症状が何に役立っているかをつきとめること) への

 シフトを謳っている事実(p.200)

 症状の意味=享楽が空になり、幻想が突き抜けられたとしても、症状は残る。いや、残るのは症状の外皮のようなものというべきかもしれない。すべての意味=享楽を抜きとられてもなお、症状の最も固有な部分、それぞれの主体に最も特異な部分が、実を取り出されたあとの果実の皮のように、主体に残る。1977年のラカン「症状への同一化」と呼んだのは、このように、長い分析の果てになお形を留めている、症状のなかのもっとも特異な部分への同一化なのである。〔…〕
 分析の終わりにも症状が残る、それどころか、症状への同一化が残るということは、ようするに、症状とのつきあいは死ぬまでなくならない、ということだ。ラカンにおいて、症状は克服すべきもの、切り捨てるべきものから、生涯にわたって付き添わねばならないものへと、決定的に変わった。〔…〕 症状のないところに主体はない(pp.286-291)



《現実》は、たんに「客観的に」あるのではない。私たちはそれをつねに、再編している。その不可欠の拠点が、症候としての《サントーム》というわけだ。
化学物質や統計数値にすべてを還元する議論は、この《現実の再編》すなわち、《どのように主体化すればよいのか》という問いを、なかったことにする。そのような論点が必要であるという問題意識じたいが、潰されてしまうのだ。

 厳密に個人の主観によってしか測定しえないことがら〔…〕の領域に統計学的尺度をもちこもうとする試みは、おしなべて「心のマネージメント」の方向に進んでゆかざるを得ない。というのも、その本性上、統計は個人を「主体」としてではなく、たんなる「一〔いち〕として扱うからだ。〔…〕 ここに見出されるのは、「エビデンス」(より正確には、「エビデンスに基づく医療(EBM)」)という身体医学の現代的理念を、精神医学・精神保健の領域にそのまま当てはめようとする粗暴な実証主義にほかならない。(pp.249-253)



問われているのは、

    • 私たちの一人ひとりが、自分の現実をどうやり直すのか

ということ。

 分離が偏在する世界にあって、人間的対象と向き合うこと、それどころかそれを見つけ出すことがいかに難しいか(本書p.64)

私も立木氏も、この難しさに直面し、自前の現実を作り直すことに呻吟している。問題は、その技法だ。*10



関連:フロイトの著作は、全てがオートフィクション」

立木氏は、小説の体裁をとった自伝的作品を意味するオートフィクションを、フロイトの説明に使っている。雑誌『思想 2013年 04月号 [雑誌]』でのことだ(p.78):

多賀茂 ただ、フロイト精神分析の発端には自己分析があった。
立木康介 僕はまさにそれが言いたかったんです! フロイトの著作は、いわばすべてオートフィクションのように見えます。



今回立木氏は、あくまで精神分析の立場から、自分を露出したがる人たちに危惧を表明した。ところが創始者フロイトは、その全てが自伝的な《オートフィクション》なのだという。
どちらも《自分のこと》を論じていながら、片方は問題で、片方は範例になる――これが矛盾ではないなら、焦点はメタファーなのだろう。
つまり、単なる自分語りにはメタファーがなく、フロイトの著作(≒オートフィクション)には、メタファーがあるのだ、と。*11


というわけで、以下その話を少し。



「息ができない」というメタファー

立木氏の今回の新刊が(ということはラカン派の精神分析が)やや窮屈なのは、次のような主張をしている点だ(大意):

 死体を直接見せてはならない。なぜなら私たちは、直接的な提示ではなく、《メタファー≒置き換え≒抑圧》を、生きねばならないからだ。

うーん…
私たちに必要なのは、「表象=置き換え(メタファー)による欲望の無限化」そのものではなくて、もっと自由に、いろんな形で息をすることではないだろうか。


ここで「息をする」と言ったのは、ありがちな比喩を(まさにメタファーとして!)持ち出したのだが、――そこでの含意は、立木氏が論じておられることより、もう少し広いように思われる。

つまり私は、精神的・社会的に「息をしよう」と思ったら、代理表象をとっかえひっかえするだけでなく、もっと具体的に、環境そのものを作り変えないことには、どうにもならない。「世界から分離されていない」とは、環境へのアクセス権を持つことだし、けっきょくは立木氏も、そういう議論をされているように思うのだが、どうだろう?


立木氏は、最終的にはサントームへの同一化において、「リビドー化された身体」の復権を目指している。これは生物身体とは別の、《呼吸≒代謝》問題として整理できるかもしれない。立木氏は《メタファー≒抑圧》を唯一の代謝器官として提案し、私は別の蘇生回路を*12探している。


私たちが現状に不満を持ち、あれこれと議論を続けるのは、
生物身体とは別のかたちで、《息をする》ためだ。*13
そのためには、自分の現実をやり直す必要がある。


本書がいう《分離》は、新陳代謝の機序や回路を限定する、閉鎖空間への監禁であり、だとすれば《蘇生》は、この回路を作り変えることにある。精神という臓器の新陳代謝は、発生をやり直さないことには、止まってしまう。組織がパターン化して固着すると、代謝それ自体が死ぬのだ。



メタファーの再生産とは別の、つくり変える作業

立木康介露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析』p.192より:*14

    • 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。》(村上春樹「非現実的な夢想家として」、2011年6月)

 村上が耐えがたく思っているのは、「原子力発電の停止→電力不足」という、完全な誤りとは言えないまでも、きわめて限定されたメトニミーを、あたかも動かしがたい「現実」であるかのようにふりかざす言論にほかならない。



ここで立木氏は村上春樹を引きつつ、
本当に考えるべき問題は、現実を考えるときのパターン化にあると見抜いている。――であればこれと同じ問題意識は、誰に対しても、たとえばラカン派の精神分析に対しても、可能なはずではないか。私が本書を読みながら感じた違和感の焦点は、たとえばそのように説明できる。


できあいの理解フレームを反復するだけでは、それがいくら「現実」っぽく見えても、虚構をなぞり直すだけになる。私は、「現実をやり直す」中でしか、息ができない。そして私がやり直せるのは、メタファーの工夫だけではないはずだ。*15


あるいは逆に言えば、自分の条件をやり直すことは、
そのすべてがメタファーの工夫に置き換わるのだろうか?


死体だらけの環境があるなら、そこで必要なのはメタファーの工夫ではなくて、状況の組み換えであるはずだ。それはメタファーによる迂回とはまた別の、粘り強い迂回作業になるだろう。
私じしんが《呼吸≒代謝》と論じたように、そこにはつねに、一定のメタファーが出現するだろうが、それは《欠如→表象》に還元できることだろうか?*16


いくらメタファーに興じたところで、環境そのものを改編できないなら、今度は私じしんが、死体として回帰するしかない。私は死体として、誰の環境をも組み換えず、ただ「モノ」として、あるいはメタファーを賦活させるネタとして、処理される――場合によっては、生きているのに死体のような扱いを受けながら。*17
そう考えると、「モノとしての処理」と「メタファーによる処理」は、立木氏がおっしゃるほどには、遠くないと思うのだが、どうだろうか。どちらの場合にも私は、排除される《自分の現実》にアクセスできず、自分が死体として回帰してしまう状況について、手を触れられない――立木氏のいう《分離》は、「私の死に、私じしんが触れられない」でもあるはずだ。



新しい精神分析と、技法論

思想 2013年 04月号 [雑誌]』の座談会「無意識の生成とゆくえ(2)」より:

立木康介 〔…〕そういう状況の中で『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』は書かれたわけで、それはラカンに対する批判というよりは、ラカンの教えをもてあまし、既成の理論からの演繹しかできなくなっていたラカニスムに対する批判だったのだと思います。だから、ガタリラカンに対するシンパシーを失っていないし、見方によってはラカンを持ち上げているとも言える。
多賀茂 ガタリラカンに関して否定的なことは言っていませんね。
立木 そうなんです。
多賀 スキゾ・アナリーズとラカン精神分析は矛盾するものではなく、どこでどう使い分けるのかという問題ではないかと僕は思っています。
立木 無意識についての理論には賞味期限のようなものがあって、絶えず刷新していかないとだめなんです。(pp.73-74)

立木康介 パスは「学派分析家」という資格を付与する装置だと言いましたが、そもそもラカン派では、精神分析というのは分析家を生み出す装置なんです。精神分析であるか否かは、それを受けた人が分析家になったか否かによって決まる。それがどのような分析だったのかを証言し、「これが精神分析だ」というものを学派全体に示すのが学派分析家です。つまり、パスは単に学派分析家を認定する仕組みではなく、精神分析とは何かを今この時に決める、すなわち精神分析を作ってゆく現場だということです。精神分析の経験は常に更新される、そうでないと分析はだめになってしまう、というのがラカンの考えだった。分析を終えて分析家になったと考える個人を学派全体が分析家として認めたなら、その人が経験した分析が昨日まで精神分析だと考えられていたものとまったく違っていてもいい。そういう可能性をパスは秘めているはずなんです。(pp.75-76)



私はこのやり取りに疑問と期待があって、
今回の新刊『露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析』は、これらモチーフを立木氏がどう考えておられるか、それを調べようと思って拝読した*18。結果として、理解は大きく整理されたが(これは本当に収穫だ)、しかし「精神分析を作ってゆく」については、やはり《メタファー》の回路がそのまま残っているように思われた。


そこで立木氏に限らず、ラカン精神分析を真剣に受けとる方々にお願いし、提案したいのだが――サントーム概念およびそれへの同一化という方針は、1990年代の前半には、すでに邦語文献で参照できていた*19。私は当時それに強い感銘を受け、まさに自らの方針としたのだが、次第に、どうにもならなくなった。


なので、「サントームへの同一化」を説かれるだけでは、
20年前と同じ説明を聞きなおすことにしかならない。
――同一化はいいとして、その具体的な技法を記してほしい。


多賀茂氏と立木氏は、「グァタリはラカンを否定していない」とおっしゃるのだが――立木氏が(サントームの技法として?)提案する《メタファー≒抑圧》は、グァタリとラカンの方針が分岐する、一つの焦点に思える。


あるいはラカン派にとっての技法は、「短時間セッション」など、相対しての分析面接に限られてしまうのだろうか。だとすると、ラカン派は「まず主体を整備する」ことに特化した議論をしており、いっぽうグァタリは、具体的葛藤を伴う分析事業そのものについて、方針を描きなおしたように見える。


今後はぜひ、この点に照準してご意見を伺いたいし、議論をご一緒したい。これは、自分の現実をやり直すための技法問題だ。倫理的・政治的な選択も、技法のかたちで問われざるを得ない。



*1:この表は、通読の結果としてブログ主が勝手に作ったもので、立木氏の本にはない。

*2:「すべてが直接提示され、露出される」という趨勢については、東浩紀不過視なものの世界』が、巻末の阿部和重との対談で取り上げている。引用→《今のハリウッドはあらゆるものを視覚化し、すべてを「見える」ものにしようという過剰な欲望に駆られている。〔…〕 絶対に視覚化できないものを無理に視覚化したような映像がどんどん送り出されている。その過剰な視覚への欲望を、僕は最近、「可視的」とのシャレで「過視的」と呼んでいるんだけどね。〔…〕 すべてが過剰に視覚化=インターフェイス化された環境の中で、じゃあ人間の個性とか創造性って何だ、とあらためて問う必要がある 〔…〕 これから問題になるのは、全面的に「見えるもの」に覆われてしまった世界の中で、じゃあいかにして新しい過剰性を見出していくのか――言い換えれば、作品の過剰性についてどのように語っていくのか、その方向を探ることになるんじゃないか。》(pp.212-216) ▼立木康介(およびラカン派)は、その過剰性のありかを、《サントーム》という概念に託したことになるだろう。

*3:以上はブログ主の勝手な要約で、引用ではない。

*4:ラカンにおいて、「抑圧」の概念は事実上「メタファー」のそれに吸収されてしまった》(立木『露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析』p.212)

*5:「いかに客観的にみえるものであっても、そこに自己分析が入っているものがあるし、逆にいかに自分について語っているセルフドキュメンタリーであっても、自己分析がまったく入ってないものがある」松嶋健

*6:依存症についての技法形式的禁止は、欠如とも呼べないようなフレームだけを維持することだと言える。これはむしろ、サントームの考え方に近いのだろうか(立木氏はサントームを、「実を取り出されたあとの果実の皮」と表現している)。

*7:法的命令でしかない延命治療は、死からの分離を意味する。死へのアクセスができないからこそ、私たちは、自動的に進行する手続きを止められない。▼安楽死の禁止と、止められない延命治療は、「死をなかったことにするシステム」の作動そのものだ。それは結果として、システムのアリバイ作りにもなっている。このシステムは、リビドー的身体ではなく、生物身体を「尊重している」のだろう。

*8:ここではラカン派の精神病論、すなわち「象徴界から排除されたものが現実界に現れる(ce qui a été forclos dans le symbolique apparaît dans le réel)」を思い出している。▼立木氏の本 pp.233〜236 は、同じモチーフを参照し、統計学超自我として現れる「鉄の秩序」を論じている。

*9:これはフランス語で、《症候 symptôme》の古い綴り字だが、ラカンが用いるときには「sin 罪」「saint 聖」「homme 人間」など、複数の意味が織り込まれている。

*10:モチーフとしては、「個体化」を扱う千葉雅也の議論とも重なる(参照)。

*11:今回の巻末で凄まじい強度で紹介された「ふつうの精神病」「ふつうの倒錯」に関しても、オートフィクションが、技法上のヒントになるとお考えなのだろうか。▼立木氏が、「小説以上に愛着のある読み物をもたず、小説がなければ生きてゆけぬ」(本書p.300)とまでおっしゃるのも気になる。「真理はフィクションの構造を持つ(La vérité a une structure de fiction)」というラカンを参照されたのかもしれないが、立木氏が虚構作品に重要な意義を見ておられるのは確かなようだ。

*12:おそらくは「器官なき身体」と呼ばれる議論を通じて

*13:私はもっと、いろんな形で息がしたい――この衝動は、政治的なものだ。つまり、現実の再編が問われている。

*14:本エントリ内で、引用箇所の強調やレイアウトの工夫は、すべて引用者による。

*15:器官なき身体」は、呼吸臓器の生成の話といえる。臓器はプロセスとして、不連続な生成過程「として」分節される。代謝組織は、その場でオリジナルに生成された分節過程それ自体であり、有限の時空間でしかない。代謝は、この時空間(内在平面)の生成をともなう――私はそういう理解でいる。「客観的なモノの秩序」に手綱を明け渡せば、代謝は停止する。

*16:死体を隠さねばならないとしたら、亡くなったご本人・ご遺族への「配慮」であって、それもまた、現実との関係の作り直しで語り得る。ここでわざわざ、《メタファー≒置き換え》の話をする必要はない。あるいは「死体を見る」ことですら、代謝のやり直しに役立つという意味では、必ずしも無益ではない。

*17:《ひきこもり当事者》のレッテルを貼られることは、「生きながら、死人たちの籠もる洞穴に出掛け」「生き埋めの生をおくる」ことかもしれない、という疑念がある(→立木pp.160〜164)。私はまだ死んでいないはずだ。斎藤環の言う「批評の禁止」は、まさにこの意味で、患者さんに「二つの死のあいだ」を生きさせることに見える(参照)。

*18:本書は著者よりご恵投いただいた。

*19:アラン・ジュランヴィル『ラカンと哲学』、マルセル・マリーニ『ラカン―思想・生涯・作品』など