紛争を書き換えることはできるか

私は先日、三脇康生氏と山森裕毅氏の署名入り論考

    • 解題 ラ・ボルド病院における「管理」について問いを開く*1

について、大意 次のような指摘を行いました参照

 私は永らく三脇氏のラボルド論を読んできたが、今回の解題は、氏の論考の核心部分を知らない人の文章になっている。にもかかわらず三脇氏の署名があるのは、名義貸しのような状態なのだろう。

この件について、
執筆者である三脇康生氏と山森裕毅氏に、
メールや面会を通じて、取材をさせていただきました。*2


そこから浮かび上がってきたこと:

  • 名義貸しに相当するような事実関係ではなかった。
  • 「だから単に上山の憶測が間違っていた、よかった良かった」で終わる話でもなかった。



取材を通じて、思いもよらない状況が垣間見えてきました。


複雑に絡み合ってはいるものの、今回のお二人だけでなく、
いろんな場所で目撃されるような経緯(いきさつ)です。*3


私は公けの場で憶測を(つまり疑念を)提起したのですから、
本来なら事実関係の細部を、この場でご報告すべきかもしれません。
しかし今回は、

    • 奇妙な解題に終わってしまったいきさつを、取材できた。
    • 「関係者のあいだでウヤムヤにされた」には終わらなかった。
    • 取材者である私じしんも巻き込む形で、作業を次に繋げることができた。



――以上のご報告をもって、ひとまずの決着にしたいと存じます。


《制度》というモチーフに取り組める状況を作り直すために、
素朴な「公開」は、かえってマイナスになると判断しました。



分析的であることと、それを公開すること

制度への取り組みにおいては、次の2つの問題軸が交錯します。

  • (1)メタ的な言説である ベタな振る舞いである*4
  • (2)隠す 公開する



ベタな振る舞いを分析するときは、「その分析を公開しても良いのか」という葛藤を、つねに味わうでしょう。なぜなら、分析そのものがオブジェクトレベルの営みであり、新しい制度的環境に、影響せざるを得ないからです。「これは学問言説だから(あるいはジャーナリズムだから)」というような、分析そのもののメタな身分を主張することはできない。


ひとまず今回に限っては、
単なる事実関係の「ご報告」は、一時的なカタルシスで終わる。
つまり、かえって《環境≒制度》を固定させかねない。
むしろモチーフとしての《制度》をやり直し、
集団的に作業を共有しなおそう――その可能性を、選択した形です。


これは、作業を継続するという選択であって、
紛争や葛藤そのものが解決したわけではありません。*5



憶測で「名義貸し」と記したことを、お詫び申し上げます。

取材にご協力いただいた三脇さん、山森さん、ありがとうございました。
また、この件での続報をお待ちだった皆さん、
詳細なご報告ができなくて、ごめんなさい。
ここから積極的な展開ができるよう、がんばります。


上山和樹



*1:現代思想 2013年8月号 特集=看護のチカラ “未来"にかかわるケアのかたち』 pp.226-229 掲載

*2:最初のエントリから一ヶ月ほど、ずっとこの問題にかかわっていました。自分の知らない経緯について「憶測」をやった以上、事実関係を確認し、最低限のご報告をするまで、拙ブログは次に進めないと考えてのことです。

*3:逆に言うと、ケースごとの細部や固有名を無視することはできません。

*4:「ベタにメタな言説」には、おのれのやっていることへの分析がありません。つまりそこでは、メタ言説そのものが、ベタに制度として固定されている。これが前回の指摘でした(参照)。

*5:本エントリのタイトル「紛争を書き換えることはできるか」は、取材中の三脇康生氏の発言をヒントに、私が記したものです。