条件を理解した瞬間に、変化は起こっている

ミシェル・フーコー―批判的実証主義と主体性の哲学

ミシェル・フーコー―批判的実証主義と主体性の哲学



解説書はそれなりに読むものの、フーコー本人の解読には挫折しているような(私みたいな)人は、あれこれ読むより、腰を据えてこれ一冊にチャレンジしたほうが良いのではないでしょうか。
初期から晩年にいたる網羅的な解説で、「そもそもフーコーは、何をしようとしていたのか」について、説明しなおす努力。読み通すのに10日ほど掛かりましたが、それに見合う読書体験でした。


私じしんの努力に関係するところを引用します(強調は引用者)。

 フーコーにおける政治哲学の不在は、真理と権力に対する批判を、単に個人的なものに還元するわけではない。フーコーの著作は遂行的な側面をもつからである。『言葉と物―人文科学の考古学』においてフーコーは、「反省、意識化、沈黙したものの解明、無言のものに返された言葉、人間をそれ自身から引き離す影の部分の到来、不活性なものの再活性化、こうしたすべてのものがそれだけで、倫理の内容と形式を構成する」と述べていた。つまり、非思考を可視化することは、自ずと真理のゲームに改編をもたらすのである。あるいは、そのようにして真理のゲームが改編されることに、フーコーは賭けていたのだと言ってもよいだろう。自らが従うゲームの規則を理解しないままに人は生き始める。だが、規則が目に見えてしまったとき、見えてしまったという事実そのものが、生を変容させる。自己自身と、それを形成する真理のゲームは異なった光景で目の前に現れる。そのとき、語られる言葉にもまた変容がもたらされる。「パレーシア」が可能になるのは、このような場面においてのみだろう。フーコーは政治哲学を語ることはない。しかしその言説実践は、政治的な効果をもつ。〔…〕
 だが、別の真理のゲームを開始することは、〔…〕「リスク」や「危険」を引き寄せることにはなる。真理を語ること、あるいは、人が従っている真理のゲームを語ることは、「勇気」を必要とする行為である。したがって、規則を知りつつそれに従うのか、それとも改編を望むのか、それは倫理的・美学的な問題である。 (pp.257-258)



思い出したのは、ラボルド病院の「制度分析」と、フェリックス・グァタリの schizo-analyse です(参照)。 自分の従っているルールに気づくことが、同時にそれを変えることになっている。逆に言うと、分析せずに「新しくしよう!」としても、自覚できないフォーマットに絡め取られたままだったりする。*1
ラボルドでは、フォーマットの分析と改編の過程がそのまま臨床活動になっているようで、フーコーの分析と改編を、生活の場面で、目の前でやっている感じでしょうか。*2



*1:単なるルーズさは、自分のルールに気づくことができず、じつは硬直しています。単なる「フレンドリー」は、暗黙の知的傾向への分析を抑圧してしまう。

*2:著者の手塚博氏が選んだ「改編」という言葉は、ラボルド研究の三脇康生氏が psychothérapie institutionnelle の訳語として一時採用していた「制度改編派精神療法」とも、響き合います(参照)。