アリバイへの帰属とは別の〈共〉


廣瀬浩司ネグリ/ハートの制度論の限界と可能性」より

気になったのは、

  • スピノザに頼ることによって哲学的言説の観念論から逃れられると思う素朴さ

という、フーコーの言明(pp.104-105)*1


超越がそのつど生成せざるを得ないとして(参照)、
スピノザ的な「真の観念」が、真理と認識との共属を完成させてしまうなら、新しい超越の生成は必要なくなる。その都度その場の「縦軸」は、なかったことにされてしまう――「哲学的言説の観念論」に隷属させられる――そういう抗議だと、理解した。*2


以下、廣瀬氏の論考より(強調は引用者):

 フーコーネグリ/ハートのスピノザの解釈の妥当性について判断する能力は筆者にはない。しかしながら仮にフーコーニーチェの問いから出発してこの論考*3を読むならば、ネグリ/ハートがここで新たな統治者として、俯瞰的な視点で語っていることに若干の危惧をおぼえずにはいられない。〔…〕
 ネグリ/ハートの「〈共〉の肉」が『マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)』で一種のカオスのごときものとしてしか提起されなかったのと同じように、ここにはパースペクティヴの主体化、というよりは個体化を促す動機となるような、「風景」が欠けている。
 主体化のプロセスは、視点が風景に取り込まれることによって開始される。メルロ=ポンティが『見えるものと見えないもの』で述べていたように、肉が「見えるものの見る者への巻き付き」であること、すなわち、たんなる遇有性ではなく、「みずからに回帰し、みずからに適合するテクスチャー」であること、要するに「世界という肉」の自己再帰性が深められなければならない。そこにおいてこそ、見えるものと見る者は相互にメタモルフォーズするのだ。 (pp.105-106)

    • ここで廣瀬氏は、そのつど生成するしかない超越の話をしているように見える。


 特異化=個体化とは、大気的なものと触知覚的なものの出会いである。すでに私たちを取り囲み、身体の内に入り込んでいる社会的大気のリズムを感知すること、そしてそれが特異な身体に触れ、みずからに折れ重なるときに生じるテクスチャーを触知すること、そこにこそ新たな〈共〉の出現があるだろう。そこでパースペクティヴはみずから複数化し、身体は感覚的なものの特異点であるばかりではなく、そのまま社会的なものの特異点、あるいは権力関係の特異点となるのだ。この特異点に到達する者がパースペクティヴと呼ばれる。
 呼気と排気のあいだで、みずからを社会的なものの特異点となすこと、それがおのずから〈共〉の立ち上げへとつながるのではないだろうか。 (同p.107)



突然変異的で自律的な超越がそのつど生成するのでなければ、複数性を肯定する視点は、容易に俯瞰目線になってしまう*4。 そうした目線は、集団のフォーマットをやり直すような分析生産を、抑圧する。*5


新しい分析(≒特異点≒超越)の生成だけが、プロセスとしての〈共〉に、チャンスを与える。――そのときの〈共〉は、PC やメタ理論でアリバイ帰属を確認しあうだけの〈共〉とは、違ったものであるはずだ。


《分析≒超越》がその都度なければ、〈共〉はない。 これは、

    • 相互隷属とは別の〈共〉

を考えるために、欠かせない契機に思える。*6



*1:記されている出典は、「コレージュ・ド・フランス開講講義『言説の秩序』に続く1970〜71年度の『知への意志への講義』」(未邦訳)。 原書は『Leçons sur la volonté de savoir : Cours au Collège de France (1970-1971) 』、p.28。

*2:スピノザの議論がフーコーの言う通りかどうかは私には分からないが、ここは《全体のなかでの主体化》を考えるときに、決定的な論点だ。

*3:コモンウェルス(下) 〈帝国〉を超える革命論 (NHKブックス)』末尾、「特異性論――幸福を制度化する」

*4:固着した、同じものの反復でしかない超越

*5:「私たちは複数性を肯定している」という、メタに硬直したアリバイにしがみつくから。

*6:むしろ日常的には、相互隷属は避けられない。そのうえで、それを減じる(その都度その場で離脱する)プロセスが生きられる。