超越の経験的生成のために

それぞれ数日をかけながら、二冊を一気に通読しました。
印象的だったのは、これまでドゥルーズ論の多くが

 (1)過剰に詩的 か、 (2)過剰にイデオロギー

だったのに対し、
お二人がともに、できるだけ散文的に、イチから説明し直す努力をしておられたこと。それは、隠語に頼るのではなく、隠語そのものを説明し直すような作業で、理解しにくい箇所は残るものの、勉強になりました。これからも読み直すと思います。

今回は、通読したことで出てきた疑念(これから自分が扱わざるを得ないポイント)について、メモします。それぞれが渾身の単著なので、同時に扱うのは失礼かもしれませんが、浮かび上がったのは、同じ一つのモチーフでした。


まとめてみると、次のようなことです。

 発生や習得を扱いながらも、ドゥルーズ自身は、哲学という事業を超越的に固定させたままに見える。それは発生そのものに向かうというより、発生「について」述べる回路の枠内にある。


 「超越論的経験論」というのは、生活のテーマに置きなおせば、

  • 超越はそのつど生成させるしかない

ではないだろうか。(超越というのは経験的世界の中にはないはずだから、それが経験的に生成するというのは矛盾だ。ドゥルーズの議論は、この矛盾を位置づけなおす格闘に見える。)*2


 経験の条件を考え直すこと(超越論的なもの)を、メタ談義の中に囲い込んではならない。つまり条件は、単に永遠に固定されているのではなくて、改編の必要に迫られている。超越のためのそのつどの条件を、具体的に整備しなければならない*3――そのように私たちは、条件付けられている。


 生活者は、具体的に超越を生成させる課題に、この瞬間も直面する。その超越は、経験の外に設定されたものでも、「超越などない」とする相対主義でもなくて、その都度その場で、経験的に生き直すしかない。瞬間ごとに超越をやり直すことができなければ、集団的な生はゆがんで行く。


 生活の課題は、

  • 硬直した超越に囚われることなく、自前の超越を必要に応じて、生成し直すこと

にある。ドゥルーズの考察を知った後も、この課題は残されたままだ。


 この理解は、理論と臨床を切り分けることを不可能にする。
 「ドゥルーズで理論は押さえたから、今度は臨床をやろう」――こういう言い方は、理論そのものがすでに《超越の実演》であることを忘れている。
 ドゥルーズは、哲学という事業をずっと固定させていたのだから、そこでは新しい生成よりも、《哲学という事業》が超越的地位を保っていた。そのことの臨床的・政治的影響を見なければならない。*4
 「進んで支配される」というのは、超越の固定のこと。そのつどの超越の生成がうまく行かないと、私は隷属を生きてしまう。


 あるいはドゥルーズは、「今は哲学で整理し直すことが必要だ」と理解して、彼なりの特異的事業を生きたのかもしれない。だとすればそれは、「固定された超越」に見えて、すでに超越の生成だったことになる。


 つまり超越論的経験論は、超越の経験的生成を、理論内在的に準備した。


 フェリックス・グァタリは、患者や自分の苦しさを通じて、《その都度その場で超越を生成させる》という課題に日々直面し、この格闘を、知的言説に位置づける必要を感じていた。そこで出会ったのが、ドゥルーズの議論だった――それがひとまずの仮定。




*1:ご恵投いただきました。ありがとうございます。

*2:単に超越が固定されても、単にバラバラな知覚があるだけでも、その都度その場で《超越を生成させる》のはうまく行かない。

*3:それがラボルド病院の「制度論的な精神療法」であり、schizo-analyse が取り組むミッションとなる。超越的なもの(縦軸)がそのつど新しく生成しなければならないという課題に気づかなければ、この事業趣旨は見えてこない。▼「精神病になれば分裂分析ができる」ではないし、「精神病が増えてきましたね」という漠然とした状況論も、《分析→改編》の実務ではない(単なるメタな確認にすぎない)。
 分析という超越の生成は、毎回生き直される。それそのものが改編的生産(≒水漏れ)であると同時に、新たな改編を準備する。

*4:大学院に入ることを「入院する」というギャグは、大学環境の問題の一端に触れていないかどうか。大学の関係者は、「入院環境」に直面する臨床家のポジションにあるはずだ――同様のことは、あらゆる人的環境に言える(参照)。 「病院に勤務しているから臨床に取り組める」のではない。