「生まれてこないほうが良かった」について

はてブ子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。

与えられた生を引き受けられないと感じたときに、
どうしても直面させられる(参照)。*1


ひきこもる人の一部は、

 勝手に産んだのだから、親は俺の面倒を見る義務がある

という論陣を張る。それをバカにすることはできても、
この言い分が生を引き受けられずにいる姿そのものであるという事実は残る。*2


「結論」を知的に出せるかどうかはともかく、
生まれてしまったものを引き受けられない弱さは、
事実として対処を迫られる。


生を肯定することが哲学で問われるのは、それほどまでに肯定が難しいから。知的というよりも、具体的な処方箋や技法として。世界を肯定することが(石ころのように)自明なら、問いや技法は必要ない。

《引き受けられない》という、そのこと自体がヒトの事実性になっている。*3

「肯定しろ」と外在的なお説教しかできないのは、
それはそれで弱さの姿。



*1:関連書籍:『生まれてこない方が良い: 存在してしまうという害悪(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)』 著者のデイビット・ベネターは1966年生まれ。

*2:主張内容を観念的に批判することはできても、引き受けられずにいる相手が現実として残ってしまう。(あなたの現実逃避は、私の直面すべき現実になる)

*3:現象学存在論は、引き受けようとしてもがく姿。