フェリックス・グァタリ――難解さの必然性はどこにあるのか

現代思想 2013年6月号 特集=フェリックス・ガタリ

現代思想 2013年6月号 特集=フェリックス・ガタリ



特集部分を、すべて詳細に精読しました。*1
わからない部分を残しながらも、とりわけ勉強になったのは、

  • 江川隆男+千葉雅也の対談(とりわけ江川氏の発言)
  • 山森裕毅、松本卓也、西川アサキの各氏の論考

でした。 ただ、

 グァタリはなぜ、あのように難解な議論をする必要があったのか

は、今回の特集でも、よく説明されていないと思うのですね。


それぞれの論者は、「グァタリの言っていたのはこういうことだ」を解説しておられるのですけれど、そもそも「知的に面白そうだ」以上に、必要性のある議論なんでしょうか?

難しさの理由がていねいに説明できれば、それは必然的に、制度分析や schizo-analyse の説明にもなっていそうです。

    • ふつうの言葉づかいで説明すると、大事な点を逃してしまうのだろうか。
    • グァタリの(ダイアグラムなどの)難解さは、ラカンのマテームと、位置づけが違うのだろうか。

ほとんどの人は、「あんなにわけのわからない議論は、理解する必要がない」「もっと普通に論じればいい」と思っていると、思うのですね。*2


たとえば schizo-analyse が、千葉雅也氏の言うように「分析はテキトーでいい」でしかないなら(pp.96-97大意)、あれほど難解な文章を苦労して読み解く価値はないはずです。あるいは山森裕毅氏の解説する記号論は、知的に面白くはあり得ても、その解説を臨床家が、あるいは苦しんでいる患者さんたちが、読めるのか――現状ではほとんど無理です。*3
こうなると、難解な議論を作り出したこと自体が、「知的なお遊戯だったんじゃないか」という疑念も出てくる*4。そうではないとしたら、その必然性はどこにあったのか。


これは、私じしんの制度分析や schizo-analyse への理解とも関わります。つまりラボルド病院やグァタリの技法では、「理論」と「実務」を、簡単に分けられないはずなのです。
理論的と呼ぶべきであるような分析や前提も、すでに《主観性における実務》になっているわけで、そこを分析的に論じ直さなければ、《主観性の生産》を考える意味もない。理論はそれ自体が、すでに制度論的な実務としての体裁をもっているわけです。*5


松本卓也氏の論考は「人はみな妄想する」というタイトルですが、これはあくまでラカン側からの表題であって、グァタリ側からすると、「人はみな、分裂的に分析生産する」とでもなるでしょうか*6――それが非シニフィアン的であり(ラカン的な意味で)現実的であるなら、その生産活動や生産物は、既存のシニフィアン連鎖の専制において、《排除》されがちであるはずです。


「日本におけるグァタリ的臨床」を扱った本は事実上2冊しかないのですが、今回のグァタリ特集では、なぜかそのうちの一冊、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』の関係者がおられませんでした*7 ――執筆者が足りなかったらしいにもかかわらず(参照)。
今回に限らず、この書籍『医療環境を変える』は、いつも「なかったこと」にされがちだと思うのですね。これを個人の特異性に還元せず、《集団の事情》として分析することに、私はグァタリ的な意義を感じます。*8


つまり、党派性に見えるものを単に非難するのではなくて、そのパージ(自発的撤退?)は、ひょっとすると、原理的に「しょうがない」面があるかもしれない。そこで、誰もが生きているはずであるにもかかわらずいつの間にか排除されがちであるこの分析生産を、どうにか社会に位置づけ直すために、グァタリはあの異様な議論を必要としたのではないか。*9


このモチーフは、身近な党派集団にうまく参加できない「ひきこもり」問題に、直接かかわります。


ラカンとの比較や記号論を考える限りは、それは分析「について」の議論ではあっても、自分たちの状況そのものに対する分析「それ自体」ではないですよね。そして、分析そのものをやってしまったら、それは多くの場面で、ほとんど必然的と言っていいほどに、排除されてしまう。*10

それを「しょうがない」で終わらせたのでは、政治性や歴史性についての具体的なディテールが失われます(集団として今回がどういう傾向にあり、誰がどういう判断を下したのか)。 グァタリの議論は、どうしても必要であるにもかかわらず排除されがちな分析に居場所を与え、そのための環境整備を進めようとしたのではないか、そこに難しさが生じてしまったのではないか。*11


もちろんこれは仮説ですが、そういう理由でもなければ、度外れて難解であることに納得できません。そして、わけもなく難解であるだけなら、そんな「議論」は、好事家に捨て置けばよいことになります。


グァタリの文章に途方に暮れるたびに、「本当にこんな議論をする必要があるのか」という疑念は、私にも生じてきます。そしてグァタリがあくまで臨床に即す以上、もっと実務について、議論が必要なんでしょうね。(「私たちの職場や生活がその実務であって、実践の原典性は、特別な塀の中だけにあるわけではない」――ひとまずそう理解するのが、私の方針になります。)



*1:本ブログでは、Félix Guattari の名を「フェリックス・グァタリ」と、できるだけ原音に近く表記しています。また本エントリ内の強調は、すべてブログ主によるものです。

*2:同じことは、ほかのいろんな思想家についても言えそうです。

*3:必要なら難解さを厭わず、医師や看護師・精神保健福祉士等の訓練プログラムで、グァタリに取り組む必要があるでしょう。私はそういう必要の是非について、真剣に問うています。

*4:「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)』で突きつけられたのは、まさにそういう疑念でした(参照)。

*5:仮にそれが、診断学や疾患分類学に自己限定するような議論であっても。【これは、鍵つき tweet へのリプライでもあります。】

*6:邦語文献での「サントーム」への言及は、早い時期では『ラカン―思想・生涯・作品』(1989年)、『ラカンと哲学』(1991年)等にありました。個人的にもそれがラカン派への興味の焦点だったので、今回の松本卓也氏の論考は、自分のいきさつを思い出すものでもありました。私は「サントーム」に注目したあとで、それではどうにもならず、グァタリ的な「分析」の話を必要としたわけです。

*7:唯一の例外が、写真家の田村尚子氏。今回の特集での文章執筆は、1ページ分(p.150)です。

*8:2013年6月号のグァタリ特集が「こうであった」いきさつは、日本の集団事情を考えるうえで、大事な素材であるはずです。

*9:それは結果的に、難解さそのものによって排除されているので、パフォーマティブに「成功している」とは、とても言えないですが。たとえば西川アサキ氏の論考は、理解できた部分はとても興味深いのですが、それにしてもあまりに「読めない」。 グァタリの4つの「U,F,T,Φ」は江川・千葉対談でも難しいとされているのですし、ぜひ今回の論考の5歩ぐらい手前から説明しなおす感じで――つまり、グァタリ的な概念操作の必然性そのものから説きなおす形で――、単行本の分量で読んでみたいです。西川氏が、どういう理解を前提に読んでおられるのか。

*10:私はそうした体験を重ねていますが、それが本物のトラブルであるゆえに、なかなか「報告」できません。

*11:松本卓也氏の引いておられるラカンの次の言葉(p.127)は、schizo-analyse についてこそ考えたい。 《私には、ひとつのディスクールの位置を〔…〕切り拓く仕事がある。〔…〕私の企ては絶望的であるように見える〔…〕。なぜなら、精神分析家はひとつの集団を形成することが不可能だからである。それにもかかわらず、精神分析ディスクール〔…〕は、まさにいかなる集団の必要性からも解放された社会的紐帯を創設することができるものである。》
 「特異的な」分析が紐帯を作るという矛盾に留まって考える必要を感じます。ラカン派は「集団」を作っていますし、またグァタリを読む人たちにも、一定の党派性が見られます。――むしろ党派的な紐帯は、どこにでもあると言うべきでしょう。この当事者性から逃れられる人はいません。「だらしない議論」も、それとして一つの制度を生きるのであり、党派的なのです。