超人として働くとは、どういうことか?

原理的な励ましを得ました。
支援論の基本図書としたいぐらい。


超人の倫理  ---〈哲学すること〉入門 (河出ブックス)

超人の倫理 ---〈哲学すること〉入門 (河出ブックス)


 現代においても意志や自由意志によってさまざまな問題の解決や事柄の転回を求めることは、実際には神学者の言い分と同類だということです。(同書p.175)

ニート・ひきこもり問題の論点そのものです。
精神主義的な自己責任論と同じく、
たんなる「自由意志尊重」も、基本的な前提がおかしい。


以下、本書「結論にかえて」より(強調は全て引用者):

 超人の倫理は、個人よりも個人に、個体より個人に、主体よりも主体に関わるような作用がありました。それは、言わば秘めやかな「倒錯的な趣味」であるといえるでしょう。 〔…〕
 ニーチェは、こうした「個人化」を「もっとも個人的な手段を用いての試み」だと言っていました。この「もっとも個人的」とは、個々の人間としての「個別的」ではなく、〈このもの〉としての「特異な」を意味していることは、もうおわかりでしょう。
 ドゥルーズは、ニーチェのこうした「倒錯的な趣味」について述べています。

    • ニーチェに他の哲学者たちと同じ扱いをうけさせるのは不可能である。……ニーチェは、君たちに一つの倒錯的な趣味をもたらしたのだ(マルクスフロイトも、こうした趣味をけっして誰にももたらすことがなかった、それとは逆なのだ)。つまり、この趣味とは、各人が自己自身の名において単純なことを述べ、情動、強度、体験、実験によって語るということである。ところが、自己〈自身の名〉(propre nom)において或ることを述べるというのは、実に奇妙なことである。というのも、人が自らの名において語るのは、自らを一個の自我、一個の人格、一個の主体だとみなすような瞬間ではけっしてないからである。それとは逆で、この上もなく過酷な脱人称化=脱人格化(dépersonnalisation)の修練の果てに、一個人が真の〈固有名〉(nom propre)を獲得するに至るのは、個人を突き抜ける諸々の多様性と、その個人を経巡る諸々の強度に向かって自らを開くときなのだ。(ドゥルーズ記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』pp.18-19)



 一個の自我、一個の人格、一個の主体を前提とした「自己自身の名」のもとに何かを語ることが問題なのではありません。そうではなく、自身の名を固有名にするには、その個人の特異性であり、また、「もっとも個人的な手段を用いての試み」によって個人化することです。

 真の固有名は、個人における超人への個人化のうちにしかないということです。
 それこそが、一個人が過酷な脱人称化=脱人格化の果てに獲得できるような固有名なのです。それは、真に超人の名なのではないでしょうか。そして、超人の名とは、何よりも超人が有している動詞の名のことです。そして、それがまさにその固有名となるのです。
 要するに、この場合の名とは、命名されたものでも、与えられたしるしでもなく、特異性の表現そのもののことです。 (『超人の倫理 ---〈哲学すること〉入門 (河出ブックス)』pp.205-207)



本書で江川氏がいう

    • 道徳ではなく、倫理作用
    • 個人ではなく個人化
    • 動詞としての《超人》

――これは、私が動詞形で《当事化》と論じる話に、そのまま重なります。*1


ではそこで、動詞形で生きられる超人は、
資本制でしかあり得ないこの社会で、何を意味するでしょう。


これを考えない就労支援は、たんなる「従軍支援」に重なるか、
さもなくば不当な「特別扱い」になってしまうか。*2


私は、「人間が人間を支援する」ことに興味が持てません。
超人に向かいたいし、誰かの超人化をサポートしたい。
本書を読んでいて、それに気づきました。



*1:もちろん、ラボルド病院の「制度分析」、ドゥルーズ/グァタリの「schizo-analyse」が、直接関係しています。

*2:この両極は、考え方の前提が同じです。個人をプロセスではなく、個物と見ている。