いわゆる当事者発言は「仕事」か

私はずっと、自分の仕事への評価が低い――というよりは、そもそも私のやっているのは「仕事ではない」という扱いに悩まされてきたが、


自分の事情を内在的・分析的に話すのを嫌がる人が、
そういう努力を仕事という枠組みで理解するはずがない。*1


今さらと言われそうだが、ようやくそれに気づいた。


彼らにとっては私がやってきたのは《当事者発言》という、彼らの「仕事」とは別の何かであって*2、「仕事」をやりたければ彼らと同じやり方をしろ*3、ということなんだろう。


私のほうは、内在的な試行錯誤をこそ《仕事》と考えていて、
だから必要な話をすると、それはいつの間にか彼らの言うところの「仕事」にならず、
自分を棚に上げて無責任なことを言うのが「業績」になる状況そのものへの苛立ちを募らせていた。


たんに「当事者発言」するのではなく、

 当事者発言とされる努力が何であるか、どういう前提に乗っかっているか

を内在的に考え直すこと。これが必要な仕事だ。
ベタにある「仕事」をするのではなく、

 それが何を目指しているか、何をすることになってしまっているか

を考え直すこと*4――そこでしか取り組めない問題構造がある。*5


ところがこの呼びかけは、

  • 単に「当事者発言」でポジションを作ろうという人たちからも、
  • そういう枠組みで支援をしようという人たちからも、

黙殺されてしまう。問い直しは基本的に、思い込まれた仕事のナルシシズムを毀損するのだ。私はその問い直しをこそ《仕事》とし、かつ集団や主観性の技法としてすら提案している。


《当事者》と言われるポジションに居直るのではなく、
そのポジションの機能の仕方を「考え直す」こと
――こっちに必要な仕事があるという理解を共有できるかたは、いまだ極端に少ない*6。この仕事が必要であることの必然性が、理解されていない。


私は、《名詞形で「当事者」と名乗り・名指される》という、その体験そのものの当事者研究に入り込んだともいえる。これは、たんに名詞形「当事者」に居直ることではない。*7
病名等のカテゴリーにベタに居直る「当事者研究」ではなく、
そういう言葉づかいで巻き込まれることがどういう事情にあるか――既存の《仕事》のフォーマットを内在的に分析し、やり直そうとする生成。名詞形で居直るだけなら仕事ではないが*8、この生成には確かに《仕事》がある。


ただし、それをどう評価してよいかの分かりやすい基準がない。そしてこれは、名詞形「当事者」でレッテルを得た人だけの仕事ではない。


名詞形に基づいた、《居直り⇔アリバイ作り》のカップリングではなく、
内在的な《生成》が仕事として評価される環境作りが要る。



*1:アリバイ作りが仕事だと思い込んだ人にとって、内部告発は仕事ではない。

*2:昆虫のように「観察対象」にされること。透明のプラスチック・ケースに飼われたアリが、巣を作るのを眺められるような。

*3:自分の話を一切せず、既存フォーマットで「観察する」側の努力。ひきこもり経験者の「仕事」で評価されるのは、ふつうの賃労働と、あとは支援団体等で「わかりやすい支援」をやるケースのみだ。

*4:「解釈学と記号学は不倶戴天の敵同士(l'herméneutique et la sémiologie sont deux farouches ennemies.)」というフーコーの言葉を思い出すなら(Nietzsche, Freud, Marx)、私はここで、解釈学のファシズムに抵抗する記号学――グァタリを参照するなら、パース/イェルムスレウ的な記号論――の側にいるはずだ(参照)。名詞形「当事者」論は解釈学の側にあり、動詞形《当事化》論は記号論の側にある。→これ、完全に逆であることに気づいた。記号論(sémiotique)、記号学(sémiologie)、解釈学(herméneutique)の関係について、考えなおさないといけない。ドゥルーズ/グァタリが記号論(「sémiotique」であって、フーコーの挙げた「signe/sémiologie」ではない)にこだわる理由にかかわって、理解を先に進めるチャンスかもしれない。(2013年5月13日追記)

*5:社会的ひきこもりはとりわけそういう問題であり、かつこれは、単に「社会的ひきこもり」と恣意的に区切られた問題フレームに限定されるモチーフではない。

*6:その意味でマイノリティ状態にある。名詞形で区切られるマイノリティではなく、いわば動詞としてのマイノリティ

*7:病名を得た誰かをベタに「当事者」と名指す方針は、じつは権威主義と馴染みやすい。なごやかな「当事者尊重」は、権威への問い直しを必ずしも含まない。名詞形当事者論は、自分のフォーマットを分析しない。

*8:名詞形「当事者」概念で特権的ポジションを得て、あとは世間的な「仕事」をやるだけ――これがありがちな姿だ。