レヴィナスの動詞論

私は、名詞形の「当事者」概念に疑念を持ち(参照)、
なんとかそれを動詞形で扱えないかと試みているのですが、
レヴィナスが、《名詞ではなく動詞を》という話をしている」
というご教示をいただきました(参照)。


ネット上に引用されていたレヴィナスの文章:*1

 ...de l’apparition même d’un existant, d’un substantif au sein de cette existence impersonnelle que – à parler rigoureusement, on ne peut nommer, car elle est pur verbe. 〔…〕
 ...la fonction du verbe ne consiste pas à nommer, mais à produire le langage, c’est-à-dire à apporter des germes de la poésie qui bouleverse les "existants" dans leur position et dans leur positivité même.

敷衍的な拙訳:

 ....実存者のまさに出現、この非人称の実存のさなかでの、実体に対応する品詞――厳密に言えば、この非人称の実存は、名付けることができない。それは純粋な動詞だからだ。
 ....動詞の機能は、名付けることにあるのではなく、言語を生み出すことに、つまり詩の萌芽をもたらすことにある。その詩の萌芽というのは、ポジションと積極性そのものの内にある《実存者たち》を、ひっくり返す。

動詞として描かれた実存では、
能動/受動、自動/他動 が微妙。


同箇所の邦訳にあたる『実存から実存者へ (ポストモダン叢書)*2では:

 問題は、それよりはるかに一般的なある事態、すなわち実存者の出現、非人称の実存のさなかにおける実詞の出現そのものの意味を見定めることである。この非人称の実存は、純粋な動詞である以上、厳密に言えば名づけることはできない。動詞とは、名詞がものの名前であるように、行為の名前であるだけではない。動詞の機能は、名づけることにあるのではなく、言語を産出することにある。つまりそれは、定位され、定位性そのもののうちにある〈実存者たち〉をその定位において、またその定位性そのものにおいて震撼させる詩の萌芽をもたらすものなのだ。 (pp.134-135)

「実詞」「定位」などの言葉が分かりにくいままでしたが、
当事者概念の文脈で考え直すことができるように思います。

レヴィナスがこの動詞論をどう扱ったか

さらに調べてみるつもりです。
関連文献や詳細な言及箇所をご存じの方は、ご教示いただければ幸いです。




『われわれのあいだで』より

今後の掘り下げに向けて、気づいた箇所をいくつか。

 私の出発点となるのは動詞としての存在である。事物や生体や人間の個人といった「存在者」でもなければ、なんらかの仕方でそれらすべてを包摂する自然の総体でもない。
 私の出発点となるのは動詞としての存在である*3。いうなれば、存在するというプロセスとして、存在するという出来事ないしは冒険として、存在が捉えられるのである。 (p.2)

 偶然性ならびに事実性を知解に委ねられた事実としてではなく、知解という活動そのものとして捉える可能性。粗野な事実のうちに、所与と化した内容のうちに、了解することの他動詞性ならびに「意味志向」を見出す可能性。
 ハイデガーは、フッサールによって見いだされたこの可能性を存在一般についての知解に結びつけたのだったが、これこそが現代の存在論のまったき新しさである。してみれば、存在了解は観照的態度のみならず、人間の行動のすべてを想定していることになる。人間はそのすべてが存在論なのだ。 (p.6)

 私は自分の肖像画のごときもののうちに閉じ込められている。論敵の議論を攻撃する代わりに、論敵の肖像画を描くことが現代の論争の本質的特徴である。『パイドロス (岩波文庫)』においてすでにプラトンが戒めていた文献考証は、語る者を前にして「彼は誰か」、「彼はどこの出か」とだけ自問するのだが、他者の話や行為を沈黙した不動のイメージに還元する画家の技法がさらにそこに付け加わる。 (p.36)

 アリストテレス形而上学以来、実体は存在の究極的で、かつ内密な構造を描くものであった。実体は「存在の類比」の終着点なのである。実体は恒常性や固体性の観念を単にもたらすだけではない。それはまた、経験を「一点に集中させ」、属性や行動を支配するものでもある。存在は思考によって主題化可能なものであり、この意味において存在は認知され把持されうるものである。「何」ないし「誰」という問いによって、私たちは存在に接近する。この問いに対しては、名詞が答える。実体とは実詞である。
 実体主義の告発、関係への実体の還元、諸事物と人間との分離――精密科学と人間科学との飛躍が可能ならしめたこのような新しさも、実詞の論理的かつ文法的な優位を揺るがしはしなかった。これとは逆に、表象から解放された情動的経験の顕揚という近代思想の動きは、もはや実詞的なものをなにひとつ有さない存在の構造の幕開きとなった。動詞によって表現される行動や、副詞によって表されるいかにしてのほうが名詞に先だっているのだ。
 たとえば、ハイデガーハイデガーの信奉者たちにあっては、存在は存在するものではなく存在するものの存在である。存在は、その現在分詞たる存在するものを開示する「薄暗い光」の源泉である。一切の存在するものの条件、最初に開示されるこの条件は一個の存在するものではない。諸存在者は「世界」のうちに現れるが、この「世界」は、実詞によって表現されうる個別的な諸存在者の総体ではなく、場であり雰囲気である。近代の小説もそれなりの仕方でかかる世界をめざしているし、近代絵画も形をなさない現実のうちに諸事物を浸そうとしている。 (pp.64-65)

 未開の心性においては、実存者としての主体ならびに能動的で他動的な動詞としての存在することが姿を現す。未開人にとっての世界は決して所与ではなく、ある匿名の界域のごときものであって、それは、主体によってはいまだ引き受けられざる実存の不安におののく匿名態にはるかに近いものなのである。 (p.70)

 古典的な心理学においては、実存はごく当たり前のことのように実存者によって所有されており、表象を媒介とした、諸存在者としての確執や争いしかそこでは起こらないのだが、これとは逆に、実存の哲学は存在への「表象に先だつ」関与を一個のドラマとして捉えている。かかる関与においては、実存することは「取る」「掴む」のような他動詞であると同時に、「感じられる、自分を感じる」(se sentir)、「位置する、自分を支える」(se tenir)のような代名動詞でもある。
 こうした動詞によって言い表される反省ないし反射は観照的なヴィジョンではなく、すでにして実存するという出来事そのものである。それは意識ではなく、すでにして関与であり、存在することの様式であって、この様式は装飾とも呼びたくなるようなありとあらゆる情勢によって質的に規定されているのだ。 (pp.72-73)

 本来性は、人種と剣の意志であるような、自由な存在可能性の雄々しさなのでしょうか。それとも逆に、存在するというこの動詞は現存在のなかで、《無関心ではありえないこと》を、他なるものによる強迫を、平和の探求と平和への誓いを意味しているのではないでしょうか。 (p.274)

 ベルクソン主義もまた、他ならぬ持続の具体性のなかで、存在という語の動詞的意味をそれなりの仕方で際立たせているのではないでしょうか。 (p.275)

 問題になるのは存在論の営みと言説です。この企ては、人間のかの「好奇心」がなにかのきっかけで唆された場合に生み出されたり表明されたりしたかもしれぬような知の試みではありません。また、宇宙を、すなわち事物、生物、関係、観念、存在するすべてのものの全体性を把握しようとする野心でもないのです。そうではなく存在論とは、動詞的な意味で存在を知解しようとする際の第一義的な根拠なのです。
 みなさんもご存じのことでしょうが、この存在するという語は動詞のなかではもっともよく了解されたものでありながらもっとも定義不能な動詞でもあるのです。存在という語の動詞的意味が表しているのは、出来事あるいは冒険あるいは行い〔武勲〕としての存在です。存在するという動詞の文法的形態のもとでは、知解可能なものはまるで我が家のなかにいるかのように住み着いているのです。
 しかし厳密に言えば、知解可能なものは行為や運動や物語や出来事や冒険を意味しているのではありません。だからと言って、それは永遠性が有する点のごとき安定性と混じり合うこともありません。なぜなら安定性は不動なものであって、存在するという動詞の「可知的な秘密」とはすでにまったく異なるものであるからです。この「秘密」は、実詞的なものや存在者を照らし出す光のもとでは失われてしまいます。
 『存在と時間(一) (岩波文庫)』に従ってこの動詞を了解するならば、その了解は論理的操作に帰着することはありません。そこでは、意味を了解すること自体、まさにその意味が探求されている当の存在の出来事に属しているのです。冒険に属しているのです。実存すること、現存在、人間の筋立てのうちで結び合わされるという「行い」〔武勲〕、すなわち存在の本質的様態にすでに属しているのです。 (p.276)

 『存在と時間(一) (岩波文庫)』を支配している、存在者と動詞的意味での存在とのあいだの根源的区別。存在という語の動詞的意味のうちには、論理的には空虚とみなすことも可能であったものが孕まれているのですが、そのようなもののロゴスを探求しようとするハイデガーの大胆で力強い思弁。
 この空虚が意味する「出来事」の発見、要するに、『存在と時間(一) (岩波文庫)』の「現象学的構築」に即して言えば、〔…〕 この空虚を起点として思考される時間性および歴史性の発見。
 ハイデガーの実存論的分析の華々しい妙技。人間の本質において何性を遮断し、その本質を実存として、存在の出来事の副詞的様態として理解したこと。意味の有意味性のなかで人間的なものを召還する新しい務め。
――有意味なものへの新しいアプローチであるこうした一切は、私には第一級の重要性を帯びているように思われます。 (pp.278-279)




*1:以下、本エントリ内の引用部分の強調は、すべて引用者による。

*2:公刊直後(80年代終盤)に購入し、それなりに眼を通していたのですが(今回取り上げた箇所には傍線まで引いています)、レヴィナスがこんな話をしていたことは、すっかり忘れていました。今は文庫版『実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)』があります。

*3:【※引用者注】 直前と同じ文章が繰り返されている。