必要な論点は、どこにも書かれていない

これは話が逆で、むしろ

    • この人たちは、なぜ自分が「書かれたことしか読み取っていない」と言えるのか。

社会生活は、つねに「書かれていないこと」の読み取りを強制されていて、
うまく参加できない人は、そこでつまずいている状況があります。*1


「書かれてあることを読み取っている」については、文字や音声の物証を挙げて、目の前で説明できるので、わかりやすいでしょう。ところが、

 「書かれていないこともすでに読み取っている」

については、説明が抽象的にならざるを得ません。
「書かれていないこと」の中身は、即物的に提示しにくいからです。



すでにやっていること、なのに

一部の方々は、「書かれたことしか読み取ってはならない」というのですが、

 あるタイミングである発言をしても「大丈夫だ」を理解する

には、書かれていないことを読み取らないと無理です。


《空気を読む》というのは、あれは空気のどこかに、
文字が浮遊しているんでしょうか。


あるいは、「書かれてあること」についても、

 話題にすることを禁じられている

場合には、書かれていないことを読み取らないと、対応できません。*2


つまり、冒頭 tweet で実際に生じているのは、
「書かれていないこと」を読み取っている生活強者が、
次のような努力を嘲笑する構図なのです。

 制度的承認を得た問題意識に放置されてはたまらないので、
 書かれていない論点を設計し直し、
 新しい《取り組み方》を創造する

これは、あくまで必要に基づいての創造なので、
恣意的にでっち上げるだけでは、うまく行きません。


むしろ、《根拠づけ》の確保をやろうとすると、
今度はそれによって、またフリーズする。



《根拠づけ》という危険な話題

合理的根拠づけというのは、意識の硬直を問題にするときには、ものすごく危険なテーマです。「自分は何をやっているのか分からない」というのは、たんに哲学的な問いではなくて、《根拠付けが出来るまでは何も出来ない》という恐怖症にとらわれてしまうと、固まるしかなくなる。


自分の作業を設計し直す努力は、根拠づけがうまくいかないまま、
《底の抜けた状況で》やるしかない。


必要なのは、「根拠づけせねばならない」というウソの(不可能な)要請に居直ることではなくて、*3

 根拠づけできないという条件を踏まえた上で、どうするか

――この技法を考えること。



論点の様式を変える必要

私たちが読み取るべきことは、《書かれた文字》に限定されるでしょうか。手持ちの論点が機能しないなら、私たちは論点を描き直し、取り組み方法そのものをつくり直す必要があるのではありませんか。*4


この努力を嘲笑する人は、

  • ご自身は適宜「書かれていないこと」を踏まえてサバイバルし、
  • 都合の悪いことは、「書かれていないから」と無視する。

問題意識の固定そのものがきわめて政治的です。


主観性や関係性の硬直にかかわる論点は、今のところ、多数派の言説には書かれていません。ですから、うまく行っていない人は、取り組みの――ということは、《読み取りの》態度そのものを、新しく創り出さねばなりません。努力の様式を作り直す必要があるのです。《創造》の本当の必要は、ここにある。*5


逆にいうと抑圧は、

 創造の必要があるにもかかわらず、読み取りのスタイルを不当に規制される

ところにあります。
既存の努力様式への過剰な順応派は、「そんなことは書かれてないなぁ」と言っておけば、試行錯誤そのものを踏みにじれるわけです。順応しておけば、正当性を確保できるから。《正当化の様式》そのものについてまで、弁護する必要に迫られないから。



問題意識(≒理解状況)の貧困さは、苦痛の環境要因

問題は、

 書かれていないことは読み取らなくて良い

というウソの口実がのさばることで、問題意識が不当に単純化されてしまうこと。必要な論点は科学や論理学に還元され、骨抜きにされ、潜在的な改編の必要性は、なかったことにされます。


冒頭のツイートで RT されている id:contractio(酒井泰斗)氏は、
以前に私とのやり取りが終わった後、こんなことを言っています(参照):

既存の専門用語と、新しい問題意識の葛藤が描かれているので、
私のしている議論と、重なりをもつ可能性がありそうです。
ただ、疑問が大きく二つ。

    • このような話は、どこに「書かれてあった」のでしょう。
    • ここでおっしゃっていることは、私が中学に行けなくなったときの出発点です。つまり、「大人たちの言葉づかいを真似ても、そこには大事な話はない」。そこで途方にくれ、自前でモチーフを開発しなければならなくなった*6。今の私が論じていることは、そこから30年の葛藤を経た上での論点です。――中学時代の出発点を言っただけの酒井氏が、私に「反論した」ことになっているのは、どういうことでしょう。



私はここ数ヶ月、酒井氏あての事情説明を膨大に行なったのですが参照1】【参照2】【参照3そこにはさまざまな論点が「書かれていた」にもかかわらず、酒井氏はそれを読み取れていません。そして、私の出発点の認識を(なぜか私の言っていないこととして)言葉にして、それを「反論」としてぶつけてきた。


つまり酒井氏は、「書かれたことしか読み取ってはならない」と言いながら、書かれたことも読み取れてはいません。――ここでは、「書かれたことしか読み取ってはならない」という前提が、(議論を厳密にするというよりは)読解の能力を落とし、問いの設計図を、不当に稚拙にしています。*7


「書かれたことしか読み取ってはならない」ではありません。実際に私たちは、書かれていないことも読み取りながら暮らしているし、書かれていないところから自分で論点を編み出し、それを言葉にし直さなければ、生き延びることすら出来ません。



学問に醸成される無能力

人の生き死にを左右する重大な論点が、学問の体裁をとったウソの言説に抑圧されています。 つまり、

 解読や論点生産の《能力のなさ》

は、学問ディシプリンとして、人工的に醸成されているのではありませんか。



*1:ひきこもりや発達障碍の周辺で取り沙汰されるのは、こういう苦しさです。

*2:ヤクザ関連など、暗黙の事情にかかわることは大抵そうです。

*3:ご自分たちは、明文化されていない曖昧な根拠を読み取って暮らしているのですから、「書かれたものだけに基づけ」というのは、詐欺のような要求です。要するに、体制順応派の居直り。

*4:たとえばマルクス価値形態論生産様式論 は、彼が描き出す前に、どこかに「書かれてあった」でしょうか。彼は、問題意識そのものから――ということは、《説明上の着眼》から、やり直さねばならなかったはずです。

*5:オリジナリティを競う自意識は、創造性とは何の関係もない。

*6:当時は、心理的な恐慌状態でした。どうしていいか、本当にわけが分からなかった。

*7:お互いに分かりやすい悪意がないことは、むしろやり取りを紛糾させます。「書かれたことしか読み取ってはならない」は、主張者たちにとっては、誠意の拠り所でしょう。