動詞形マイノリティの擁護

ドゥルーズやグァタリの文脈にある《生成》は、動詞形であるはず。
名詞形で「生成」「生成」と論じたところで、生成を生きたことにはならない。
ところが多くの論者は、これを名詞形で擁護して正義を生きたことにしてしまう。*1
これは、「当事者」という名詞形が擁護されれば良しとされ、実際に当事化してみせる動きが踏みにじられることと同型。


動詞形のマイノリティを擁護するというのは、ある動詞が不定詞として常に肯定されるというのではなくて*2


必要に応じて組み替わる-替える-替えられる*3動詞には、日付のついた細部がある。つねに自己検証があり、事前に想定できない分節生成がある――そうしたものを肯定できないかという話。たんに politically correct なのではなくて、「それで元気になる人が増えるはず」という仮説的な技法論だ。



動詞をイデア的に固定し、このイデアの反復しか読み取らない解釈態度が支配的となった状況で、その都度オリジナルから生成し直す分析には、生きる場所も時間軸もない*4。この生成を尊重しようとする技法論は禁止され、忘却され、息の根を止められそうになっている。 この生成を殺すことは、結果として、生の状況を荒ませてしまう。


ついに動詞的生成をやめられない分析は、必要な理解を名詞形に還元できず*5、生の営みと切り離せない。この分析には身体があり、無時間的に確認できる《意味》には還元できない。論理には身体がない。*6


「当事化」は、《無時間的論理+名詞形》の反復を拒絶し、動詞的生成としての分析を生きようとしている。



「論理と規範」ではなく、技法の問い

《無時間的論理+名詞形》 で済む規範論に対して、
技法論は、そういうわけにいかない。技法論は、「排除された名詞を擁護する」というアリバイ・ナルシシズムではない。位置づけの難しいものは、わかりやすい手続きを与えてくれない。

ここで廣瀬浩司氏が「器官」とおっしゃったものは、
象徴的マトリックスと重なるだろうか。


私はこれを、グァタリの持ち出した不定詞に近い議論と理解している。
グァタリのほうは、これで資本制を直接論じている。 ex.不定詞の《不定詞化》」「すべてを不定詞化する機械


今回提案した「動詞形マイノリティの擁護」は、

 さまざまに硬直する(とりわけ、剰余価値生産に向けてパターン化される)不定詞に対し、動詞そのものをやり直そうとする、そのような動きを擁護しようとするグァタリの《特異化 singularisation》*7

と、同じ論点ではないだろうか(参照)。*8



名詞形マイノリティの擁護なら、「規範論だけでよい」と思い込めるだろう。しかしそれは、差別の再生産にもなっている。相手を名詞形に監禁するからだ(参照)。
今後必要なのは、動詞形マイノリティの擁護であり、これには技法論が必要なのだ。 PC のような分かりやすい居直りはできない。


この問題の射程は、広く深い。私たちの生の再生産を根幹から問い直すことになる。技法を抹殺する《意味≒価値》の帝国は許せないが(参照)、意味をやらずにいることはできない。そうなるとこの動きは、つねに《意味だけに頼ろうとする暴力》に流れていき、生成を生成として擁護できなくなる。理念で動詞形を確保すればよいという話ではないのだ。



*1:実際に生きられる生成を読み取らず、ということは、おのれに生成した理解をも踏みにじる。生成を潰してしまう党派性。その党派性を形作る「論理への還元」と、アリバイにされる名詞たち。名詞形で「当事者」「生成」を擁護しておけば仕事をしたことになる頑迷さ。

*2:不定詞は動詞のイデアだ。資本制において、このイデアはある型にはめられる(参照)。

*3:じねん-能動-受動

*4:病院や会社で言われる「そんな時間はない」は、同時に、「そんな時間はない」だ。

*5:病名カテゴリ等も、そのつどの部品でしかない。

*6:器官なき身体」は、《そのつど動詞をやり直すしかない》ということ。「器官なき身体」という名詞を擁護しておけば良いのではない。おのれの生成を動詞形で擁護できるかが問われている。

*7:この囲いの中は、ブログ主による説明

*8:「特異化」と連呼しても、またしても動詞形の動きが名詞化され、それが擁護されてPCが保たれたことになってしまう。この、《動詞形でしか生きられない動きを名詞化(イデア化)し、それを連呼することで正当性を担保する》という動きは、あまりにルーチン化している。動詞の物象化こそが問われねばならない。