「観念論:唯物論」 ≒ 「規範論:技法論」
観念論(イデア主義) と 唯物論(もの主義) の争いを(参照)、
規範論と技法論の対立として、位置づけ直せます。*1
実務上こまるのは、技法論的な試行錯誤は、「〜べき」の狂信性に、とりあえず負け続けるしかないこと。言葉のチェックと「〜べき」の反復で正当性を確保できる(とされる)規範論は、狂信的居直りをしやすく、動員がかかりやすいため、集団的現象として直面したときには、歯止めがありません。
いっぽう技法論は、主観性や集団を生産過程として(つまり、これまでに取り沙汰されたのとも違うタイプの唯物論として)理解する文脈が根付いておらず、さらに実証には何年も掛かることが多いため、規範論の狂信性にうまく対応できない。
規範論しかない環境で、技法論を根付かせるには、どういう作業が必要でしょうか。
グァタリやラボルド病院の技法を紹介した『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』座談会で、三脇康生氏の体験等に関連して私から行なった問題提起――つまり、「受傷性が高すぎる」というのは(p.234〜)、整理し直せば、
イデオロギー的な規範論に対する、技法論的な試行錯誤の脆弱さ
と言えます。
経営で頭がいっぱいのとき、あるいは文化大革命のような状況で、技法論を聞き入れる人はいるだろうか。あるいは自分も、技法論に乗り出すことは、けっきょく「技法論的に」断念せざるを得ないのではないか。*2
科学と論理だけで考える方針は、技法問題を「解決済み」とすることです。*3
すでに「正しい方法」は分かりきっている(とされる)ので、逡巡したり、別に見えるやり方を導入した時点で、徹底的に叩かれる――そもそも、「技法論をしている」という説得が、魔法に掛かったようにまったく理解されません(参照)。
《技法問題の最終的解決(Endlösung)》
「技法問題など存在しない」という帝国において、
人々はもはや、技法論を許されないばかりでなく、
技法論が「あり得る」ことさえ、忘れています。
忘却そのものが忘却されている。