- 作者: 浅田彰
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1986/12/01
- メディア: 文庫
- 購入: 4人 クリック: 77回
- この商品を含むブログ (78件) を見る
以下、『逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』より(強調は引用者):
男たちが逃げ出した。家庭から、あるいは女から。どっちにしたってステキじゃないか。女たちや子どもたちも、ヘタなひきとめ工作なんかしてる暇があったら、とり残されるより先に逃げたほうがいい。行先なんて知ったことか。とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでも、だ。 (p.10)
女から逃げるって言ったのは男と女の定型的な関係から逃げるってことなんで、男の逃走の線と女の逃走の線が交差するところに新たな愛が生まれるとすれば、それはステキなことだと思う。ともかく、おネエ型だのマッチョ型だのいうタイプに自分を合わせようと躍起になってるホモなんかより、男らしい男なんていう神話に固執しないヘテロの方がずっとゲイなんだということをお忘れなく。 (p.14)
そういえば、
人 が主 とかいて住 とよむ、なんて文句があったけど、主体ってのはまさしくパラノ型の《住むひと》なのである。そういうひとはスキゾ型の《疾走する非主体性》に耐えられないもんだから、《主体としての自己の歴史的一貫性》なんかにしがみついてるんだけど、その家の地下室あたりでは、必ずやトラウマってヤツが、大昔のふかーい心の傷あとが、腐臭を放ってるんだ。 (p.15)
というわけで、真のゲイ・ピープルをめざす諸君、今こそ新たなる逃走に向けて決起されんことを! (p.16)
「逃走」も「闘争」も、ある動詞のあり方を、名詞にしたものですね。
闘争を逃走に置き換えるのはいいとして、そこで問われるのは、動詞の中身でしょう。
《逃走する》って、どういう意味だったんでしょうか。
浅田氏は、《疾走する非主体性》を生きるとおっしゃるのですが、それが何を意味するのか、具体的な中身や技法については、ほとんど何も語っていません。
「子どもになり、さらには、動物に、植物に、鉱物になる」と、大哲学者の大げさな比喩を反復したり(同書p.18)、「スキゾフレニックに走り回っていればいい」などとしか言わない(参照)。
《闘争≒逃走》を言うことには、80年代初頭の必然性が、きっとあったのだろうと思います。ただそれは、「どうすればいいのか、さっぱりわからない」という戸惑いに対しては、何も応えなかった。できない人へのたんなる罵倒は、反動としての同一性回帰(しかも強迫的な)に、燃料を注いだだけだったかもしれない。
というのも、自分をうまくまとめられない苦しさは、統一を実現しようとする狂おしい衝動に化けるからです。以下、『多重人格性障害―その診断と治療』p.446、中井久夫氏による記述より(強調は引用者):
〔翻訳を〕やり終えて、改めて、私の生涯の課題であった分裂病患者を思うと、彼らが、自己の解体を賭けてまで、自己の単一統合性を守り抜こうとする悲壮さが身にしみて感じられる。
ですから、
うまく主体化できない切迫があるときにやるべきなのは、
単に破綻を喜ぶことではなくて、技法論をやり直すことでしょう。
浅田氏ご自身は、趣味化の才能みたいなもので「いつの間にか」自分を纏め上げていた。そこでは技法が言説化されない(あるいはそもそも、主題化されない)ので、チープな模倣を生んで終わってしまう。
逃走の帰結は、疾走ではなく引きこもりだった
浅田彰『構造と力―記号論を超えて』p.5(1983年9月)より:
スタイルといい、感性といい、いかにも軽薄な響きではある。けれども、感性によるスタイルの選択の方が理性による主体的決断などよりはるかに確実な場合は少なくない。その意味で、ぼくは時代の感性を信じている。
しかし、時代の感性が選択した「逃走」は、
疾走ではなく、「ひきこもる」という形をとりました。*1
ではその、動詞形の集団的現象に対して、浅田彰氏がどんな処方箋や技法を出せたか。
――本当はここでこそ、浅田氏の《逃走》について、技法的な内実を開陳すべきだったと思うのですが、なんだか常識的な、当たり障りのない言及で終わってしまった。*2
ラボルド病院やグァタリ(Félix Guattari)の紹介者だったはずの浅田氏が、
《闘争≒逃走》の技法としての制度分析を黙殺したのは、
意図的だったというより、単に理解できていなかったんじゃないでしょうか。
-
- どうも、先達としての浅田氏を批判するようなエントリを何度もしていますが、問題点を明確化しようとしているだけで、全否定なんてできません*3。 それに、浅田氏を批判していれば良いわけではなくて、必要な技法論は自分でやるしかないと、強く感じています。