論じている自分の作業過程に照準できるか (2)

承前

レスポンスを頂き、ありがとうございます。
とはいえ正直なところ、居直りをされてしまったように感じています。


酒井さんは先日、私が「発達障碍的」という言葉を使ったところ、
以下のようにコメントされています(参照)。

これを「厳密に用いるべきだ」という趣旨と受け止めたのですが、
日常レベルの言い換えとして、私がそんなにひどい曲解をしたとも思えません。
ところが酒井さんは、歌舞伎役者のように
「生まれてこのかた、一度も述べたことのない主張だ」とおっしゃる。


酒井さん(あるいはエスノメソドロジー?)においては、

 「不当である」ことと、「厳密ではない」ことの あいだ

に、激しい差異があるのでしょう。
――この差異は、ほとんど隠語化してしまっています。
どう違うのか、ふつうにご説明いただけませんか。



もう一つ、ブックマークに頂いたコメントより:

contractio: 「そういう主張に、なっていませんでしょうか」「そういう話でないかどうか」に対する答えはすべて「否」で。/上山さんは、書いてないこと述べてないことをテクストに読み込まない訓練をしたほうがいいと思うわ。

私は、酒井さんの「つもり」を伺ったのではなく、
「こういう話になってしまっていますよ」と抗議した形です。


私は、「発達障碍」という言葉をめぐるさまざまな軋轢から、概念枠そのものを論じ直す努力をしており、これには具体的な苦痛緩和の(つまり臨床実務的な)意図があります。そういうやり直しの作業そのものが、提案それ自体の実演になっている。 実際に発達障碍と診断されてもおかしくない状態だった私が(参照)、いわば内在的に証言しつつ、提案を試みている形です。


その作業に対し、「カテゴリ使用が不当だ」という発言をなさったのは、
発達障碍まわりの試行錯誤に対して、不当ですよ、と申し上げています。
つまり酒井さんは、論争の渦中にある専門用語を守る形で、
困っている本人が自分で取り組む作業を阻害した。*1――明白な臨床介入です。


その不当さは、「カテゴリ使用を医師と同じにすれば正当だ」という、そのお立場そのものにあります。つまり私は、「酒井さんのカテゴリ使用は不当だ」と言ったのではなくて、「介入の前提となっている、単に護教的なこだわりこそが不当だ」と言ったのです。*2


そうした振る舞いを通じて私が受け取ったのは、次のようなメッセージです:

 医師の概念操作を崇拝しなければ、エスノメソドロジストに嘲笑される

これでは私は、与えられた身分のヒエラルキーを確認するだけです。


概念枠としての「発達障碍」には、さまざまな利害や都合が錯綜しており、医師による診断結果(担当患者内での発見率)も、驚くほどバラバラです*3。 たんに外在的に護教的な振る舞いをするのは、あまりに時期尚早でしょう。*4


また発達障碍では、意識が形を取ろうとするプロセスそのものが問われています。
まさに《主体化》という言葉で扱われる事態が、そこでの不調が、俎上にある。
「主体」という概念枠を拒絶する酒井さんが、「発達障碍」という語の運用を問おうともせず、医師によるカテゴリ使用を当然視するのは、護教的なバイアスがかかりすぎています。*5――私はこの話をしているのですが、こちらには何の反応も頂いていません。 「問題意識そのものが、理解されていないのではないか」と思わざるを得ないのです。


つづく




*1:私は、概念枠そのものの内実を問うているので、概念枠を前提にした診断権力の反復(要するにお医者さんごっこ)とも別の作業です。

*2:たとえば実例として: 今でも本屋に解説書の並ぶ「人格障害」カテゴリは、たいへんなデタラメだったことが、診断マニュアルの編纂委員によって曝露されています(参照)。

*3:「ひきこもる人には殆どいない」から、「不登校児童の全員」まで

*4:そもそも精神科の診断枠には、バイオロジカル・マーカーがありません。 cf.《病因が明らかで「疾患単位(disease entity)」として確立されている精神障害は器質性精神障害のみであり、統合失調症をはじめとする主たる精神障害は病因が不明なため、症候群(syndrome)あるいは類型(type,Typus)としてまとめられた「臨床単位(clinical entity)」でしかない》(DSM-5 ドラフトについて)。 発達障碍は「器質的」とされているのですが(病気ではなく障碍)、問題部位が特定されたわけではありませんし、「定義上、そういう話に決めてしまった」というだけです。

*5:逆にいうと、「主体」という語の拒絶と、「発達障碍」という語の無批判的受容は、セットになっているわけです。酒井さんの場合がどうかは分かりませんが、脳髄に対する物質科学的アプローチだけを前提にする場合には、これは当たり前のことです。「科学的な説明」には、主体というカテゴリが登場しないので。そこで「主体化」は、方程式で表される物質反応の一部でしかないでしょう(つまり、そもそも主体化という概念枠は必要ない)。――むしろこの点をめぐって、積極的な議論を作れないでしょうか。つまり私の議論は、「唯物論(ゆいぶつろん)」を参照していますが、「タダモノ論」との区別は難しいままです。主体概念の分かりにくさ、曖昧さも、この周辺にあるはずです。