順応者たちがもたれあう、《黙認の結託》

ある医療関係者のお話:

 さいきんは不登校や引きこもりの相談がなくなって、
 脳髄の問題である「発達障碍」の相談ばかりになってしまった。

あらゆる立場の人が、発達障碍の話になだれ込んでいる。
逆にいうと、脳髄とは別の問題構成は、見捨てられつつある。


社会保障からこぼれ落ちる相談者に「発達障碍」のカルテを乱発することは、
一部の“良心的”支援者にとって、使命感にすらなっている。*1



主観性の制作過程――その技法論

病気でも知的障碍でもないはずなのに、「できない」。
私はその多くを、《主観性の制作過程の硬直》と捉え、
技法論としての試行錯誤を続けている。*2
しかしこれは自動的に、「発達障碍」という概念の政治性を暴き出す。


官僚的な正解主義にとって、こうした技法論は
「通常とは異なる概念操作」であり、容認し得ない逸脱だろう。*3


主観性の技法論は、じぶんの構成について、歴史性や様式を問う。
――これは、試行錯誤の権限と能力を取り戻そうとする作業だ。
今はこれが忌避される。



「もはや順応しかない」

少し前から、ささやかれていたこと:

 以前は親の会をすると、親御さん同士が話し合っていたが、
 最近は話し合いの最中は黙っていて、終わってから個別に相談に来る。
 みんな、「自分たちで取り組む」ことを信じなくなった。

もう、制度順応以外に生き延びる道はない、と。


自力で試行錯誤などやってしまったら、目を付けられる。 それより、
少々のウソがあってもいいから、社会保障の制度内に入れてもらいたい。


官僚的な概念操作に対し、「技法論的に別の話があり得る」というのは、
危険な自己主張として、自粛される。*4


「そういう順応主義こそが、意識を硬直させるのですよ」と言っても、
むしろもっと硬直したほうが、発達障害の診断をもらえるかもしれない。
そしたら、社会保障で生き延びられるではないか。
何の保証もない技法のチャレンジなんて、弱者には危険すぎる
――そういう判断でないかどうか。



個人としては合理的でも、集団としては自滅的

 「誰も自分でやろうとしていない、だから私も迎合しよう」

問題に取り組むより、打算的な制度順応が優先される。


医師や学者の多くは、真実を語るのではない。 彼らは、
専門性のロジックに迎合し、ひたすら「業績」を作っている。
いくら大事な話でも、「業績にならない」と判断すればやらない。
それが、弱者側の制度ユーザーに利用される。


――順応主義者たちによる、相互利用としての《黙認の結託》。


大川小学校で、子どもを何十人も死なせた大人たちを思い出す(参照)。
近視眼的な順応主義は、「全員で津波を待つ」ような居直りだ。
集団的な破綻が押し寄せても、誰も責任を取らない。


問題はここからだ。 さて、ではどうするか。



*1:訪問者の何割を発達障碍と診断するかの判断は、窓口や医師によって大きく異なる。

*2:主観性の生産様式は、歴史的な成果であり、くり返される政治的成果として、再生産されている。技法論は、この集団的な生産様式に介入する。

*3:医師の語用をそのまま追認する議論は、《主観性それ自体が唯物論的な生産過程である》という事実を徹底的に無視する。 「論理過程以外の主観性は、感情論にすぎない」といったことだろう。論理の前提となる概念の実態を知らなければ、これは医師への崇拝でしかない。

*4:逆に言えば技法論に、決定的な政治性がある。 「主観性に政治などない。論理的な正しさがあるだけだ」という人は、明白な政治的態度をとっている。技法論的な検証を免除される主体化はない。