謹賀新年

専門性の高い議論に仲間を見つけられる状況を当たり前だとおもう人は、
その状況が数世紀におよぶ「仕事の成果」であることを忘れている。
だから、新しい議論趣旨を抱えざるを得なくなった人が
孤立する状況に、想像力が及ばない。


制度論をバカにする人は多いが、科学の時代にああいう奇妙な議論が必要となった理由を考える人は少ないし、代替案をひねり出せる人は、もっと少ない。科学言説の太鼓もちをやったところで、問題に取り組んだことにはならない。

科学を身上とする言説は、問題を再生産する「加担行為」ですらある*1

――これは、ニューサイエンスに身売りすることではない。
科学言説のタイミングは、その都度リアルタイムに考えなければならない。


私たちはまず、主観性の再生産それじたいが難しくなっていることに気づかねばならない。気づかないフリをして、話し続けることはできない。



問われているのは、主観性の生産様式

この話をするための環境整備で、私の残り時間はあっという間になくなるだろう。
でもやらなければ。でないと、投げやりな順応主義で全てが終わってしまう。
問題に取り組んだつもりのマジメそうな言説が、すでに問題の再生産でしかないという状況に着手できない。*2


「発達障碍」という概念枠を誰も彼もが採用したがるのはなぜか。
原理的考察の《再着手》より、「順応的にやれそう」に流れてるだけ。
――そう気づいたところで、この声自身が潰される。


査読者は、党派や体制の順応者。では順応それじたいの党派性をモチーフにした論考は、誰が読んでくださるのか。カール・マルクスは「経済学博士号」を持っていない。しかし私じしんは、それを言い訳に何も書かないわけに行かない。


――そういうことを考えて過ごすお正月でございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。


上山和樹



*1:特定の生産様式にもとづいた生産関係それじたいの再生産

*2:たとえば社会学は、あたりまえのように「発達障碍」という概念枠に承認を与えている。それは相手の専門性にタッチしていないようで、《問題の大きい医療言説にアカデミックな承諾を与える》という、悪しき社会的機能を果たしてしまっている。つまり、露骨な介入だ。社会学は、おのれの言説構成が(とりわけ主観性の再生産において)もつ悪しき機能に、自覚的ではない。気づければ、いま以上に積極的な機能を果たすだろう。