名詞で考えるのではなく、動詞中心の試行錯誤に変えてゆくべきだ
――という提案(参照)に関連して、あれこれ資料を探しています。*1
- 作者: 柳父章
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1982/04/20
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「存在」は古く漢籍で使われているが、用例は少ない。 「英華字典」には「存在」という訳語はない。 「社会」と同じように、翻訳語「存在」は日本製である、といえよう。 〔p.109〕
「存在」ということばが最初に現われるのは、私の見た限りでは、1871(明治4)年に出た、長崎の人、好樹堂(こうじゅどう)訳『仏和辞典』で、être が、「存在、形体」となっている。以後、フランス語系の訳語でよく使われていたようで、 〔後略、pp.109-110〕
- 日本語では、とくに抽象的な、基本的な動詞が名詞化されにくい 〔p.118〕
- 〔和語の〕「ある」は名詞にはなりえない動詞だ 〔p.119〕
「存在」論や、「有」論は学問になるが、「ある」論は学問にならないのである。なぜなら、古代ギリシャ以来、哲学に限らず、学問は、名詞形のことばを中心に組み立てられてきたからである。
これには、西欧の言語構造が、深い係わりをもっている。西欧文は、名詞形の主語を必ず持ち、三人称代名詞や、関係代名詞など、名詞を中心に文を展開するようにできている。このような機能は、日本語では弱いか、またはないと言うべきである。
そして、中国の学問・思想もまた、名詞中心にできている。 〔p.119〕
ここでしているのは、
正しくあろうとする努力は、多くが名詞を前提になされている。
ところが日本語では、動詞が名詞になりにくい。
――そういう話だと思うのですね。
「名詞を前提にしている」とか、そういうことは、あんまり自覚されません。
しかしたとえば、《神》という言葉を持ち出してしまうと、
「神とは何か」(「デアル」のイデア論)
「神はいるか」(「ガアル」の存在論) にはなっても、
- そもそも神という名詞形を設定すること自体が生の作業上の技法にすぎないことを忘れてしまう。
そして、意識的に「スタイルを決め」なくても、英語や日本語で考えた時点で、
思考スタイルの選択は、あらかた終わっている。*2
たとえば西欧の中世には、「普遍論争」というのがあったそうですが(参照)、
あれが魅力を持たない理由のひとつは、あくまで名詞が前提だから。
つまり、「正しく考える」とは、名詞の話をすることだと思い込まれていて、
名詞を前提に考えるのは技法の一つにすぎないという、そのこと自体が忘却されている。
私が必要とするのは、努力の技法です。
そもそも、時間的にしか生きられない私たちが、
カチカチの名詞を前提に考えるのは、何か間違っていないか。
*1:以下、引用部分の強調は引用者
*2:cf.「サピア=ウォーフの仮説」。 ただし、ある言語を選べば「全て決まってしまう」のではないはず。生産様式に、歴史性と技法改善の余地があるように。