「やりかた」の試行錯誤と、分析のプログラム

あらためて、ツイッターでの議論をこちらに掲載します。
直前の大まかな流れは、 上山・酒井問答3に対するつぶやき(togetter) をご覧ください。

スコラ的区別というのは、「どうでもいいこだわりだ」という意味ですね(参照)。
これは決定的な齟齬ですが、単に個人的なすれ違い、ではないと思います。
酒井さんに悪意がないことは明らかであり、それが逆に、私にとっては深刻です。


「具体的な現象についての分析が提示されない」というのですが、私の体験の一部は、すでに4つのケースとして提示してあります参照。 これについて、では酒井さんの分析は、どのようなものでしょうか。


硬直したメタ語りの問題や「動詞を主題に」は、不登校体験以後の30年間から、私じしんが描きなおした論点です。もみくちゃになって、血を流しながらようやくたどり着いた分析であり、提案です。(単に分析ではなくて、同時にそこから提案もしているのがミソです。「ロジカルな真実を確認すれば許される」という形をしていないことに注意。)
ところが、自分の分析スタイルを検証しない専門性は、最初に設定された学問プログラムを実行するだけで「具体的な分析をやった」ことになり、こうした実務的な論点に気づくことができません。そのような学問は、「細かい分析」をやればやるほど、分析プログラムの抽象性に閉じてしまうのです。


私と酒井さんのすれ違いは、この一点に尽くされるのではないでしょうか。
少なくともこれは、事業の方針や前提をめぐる相違であり、
「結論」だけをあれこれ言い合っても、たんにすれ違って終わるように思います。*1



やり直しの必要と権利を読み取れない「分析」

私の論点がスコラ的に見えるのは、何よりも酒井さんの側に、それを論じる必要がないからだと思います。そして、酒井さんのようなお立場が支配的なら、私の提案はその前提となる証言のレベルから否定されます。(言説プログラムの閉鎖的抽象性ゆえに、提案の趣旨や必然性に気づけない。)*2

私からすれば、これはまったくトンチンカンなお返事なのですが、
そもそも、私がなぜこんな話をする必要に迫られているか、その必然性を認めておられないのでしょう。 議論の趣旨が見えないままに、ご自分の方針で分析をしている。
私の議論は――というより、症候に満ちた私の人生そのものは――、さまざまな場面でのこのすれ違いに捧げられていると言っても、さほど大袈裟ではないと存じます。(症候とは、「制御する側」である主観性そのものが、すでにオブジェクト・レベルを生きていることを言い換えたものです。最初に分析のプログラムを設定してそれ以外を認めないとなれば、この《症候》という概念設定そのものが許されないことになるでしょう。)


重要なのは、ここでは双方が、「誠意がない」という状態ではない、ということです。

  • 酒井さんは、分析の方針によって、原理的に私の趣旨が理解できない状態にある。
  • 私のほうは、「誠意を持てば」症候的逸脱がなくなり、意識的で一貫したプログラムのもとにすべてを制御できるようになる――というふうにはなっていない。それは倫理的にも、技法的にもやってはいけないことだと理解している。*3

酒井さんの分析(という動詞のスタイル)にとっては、私が言うような論点に理解を示すことは、思考の譲歩を意味してしまう。しかし、作業そのものの改編に迫られた私からすれば、既存ディシプリンへの適応こそが思考の譲歩なのです。


いま支配的な言説は、ひきこもる状況や事情を理解できない、それゆえ処方箋も打ち出せない、そういう知的スタイルをしています。 私はずっとその話をしているのですが、一旦ある知的スタイルに適応した人は、自分たちの知的事業を優先させてしまう。*4
支配的な発想法(「考えるとは、こういうことだ」)を告発する私の議論は、くりかえし「意味がない」「バカげている」と言われるでしょう。つまり、考察や作業の設計図そのものを変えようとしているのですが、多数派を占める言説の都合が優先され、ようやく形にできた目撃証言すら、なかったことにされる。ここには、努力のスタイルをめぐる闘争があります。(もちろんその主張すら、認められないでしょう。「闘争などない。お前がバカなだけだ」というわけです。すべてがこの調子です。)



「意味が分からない」と、「やり方がわからない」

優先されるべき事業趣旨は、「客観的な真理の確認」ではありません。
苦痛に満ちて反復される意識や関係性を組み替えること。あるいはその事業を、社会に根付かせることです。


塩谷賢氏の指摘が参照できます(2012年4月13日):

 (1)意味を理解する(know what)と、 (2)やり方を理解する(know how) について。
 私たちが、世界を一挙的に理解する省力化を欲するとき、それはほとんど(1)のイメージ。

講義録のせいもあって、日本語としてややおかしな表現ですが、敷衍するとこういうことだと思います:

    • 「私たちが世界を理解するには、ふつうは部分ごとに、少しずつ理解するしかない。しかし、世界のあらゆることを一挙に理解することで、労力を省きたい。そういうとき私たちは、つねに 《意味を理解する(know what) をやっている。そこでは、《やり方を理解する(know how) というモチーフは、いつの間にか忘却されている。」



私は「やり方がわからなくなっている」ので、最初から事業プログラムを決めてそれを押し付けられても、趣旨が違ってしまいます。作業過程そのもの、あるいはその「着手」のあり方そのもので悩み抜いているので。それを考えなければ、ひきこもりや意識の硬直に取り組んだことにはならない、と申し上げているのです。


現状では、知的言説そのものが、私のようなモチーフを黙殺します。
雇用とプライドを守るため、もあるでしょうが、多くの場合、「そういう論点があり得る」という必要の事情そのものを、理解できていません(今回の酒井さんがそうであるように)。



規範的説得と、身体症状

管理教育下での下痢をめぐる議論に対する反論ですね(参照)。 → 【追記】 これが誤解だったようで、下痢についてのコメントは別の箇所だったようです。本節下部の追記(右に寄せた部分)を参照。
しかしこれではまるで、管理を「規範的に」受け入れさえすれば、身体症状を解消できるかのようなお話です。*5


たしかに不登校運動の多くは、「管理社会の告発」という、規範的な形をとってきました。しかし、その告発した側のコミュニティも、集団マネジメントをやらなければなりません。 「告発」というイデオロギーを標榜しても、意識の硬直や、集団マネジメントについては、主題的な取り組みがなかったのです(多くの運動体コミュニティと同じく)。


酒井さんが私をこうした不登校運動と同じに見ておられるのであれば、それは誤解です。
私はまさに、「管理社会の告発」という80年代以来の論調とは、別の話を始めています。
イデオロギー的アリバイを標榜し、それで自己確認するような運動とは、別の議論をしたいのです。





【この部分のみ、エントリから数時間後の追記】■■■■■■
酒井氏の下痢についての言及は、上記の「管理」うんぬんではなく、以下の箇所だったとのことです(参照)。

ここで言われている「苛立ち」が下痢のことだとすると、
酒井氏は過敏性腸症候群の症状について、「分析の焦点を与えるもの」とされています。
最初のエントリ時に考えていたより、接点があり得るかもしれません。
本節の議論は、言及先についての誤解に基づいたものではありますが、結果的に
私の立場の大事なポイントを説明することになっていますので、ひとまずこのままにしておきます。






「概念の自己運動」と、労働過程の適宜の改編

詳細はあらためて(場所や形式を変えて)まとめなくてはなりませんが、大まかに言えば、
私が申し上げているのは、ヘーゲルに対してマルクスが行なったような反論です。つまり、学知の自動展開を放置するのではなく、素材そのものの展開に即しながら、それを実際に組み替えるような作業が必要なのです。


概念の自己運動(として固定された動詞技法)では、作業過程の方針は一貫して同じままですが、
素材レベルの労働過程では、プロセスの最中にも、こまごまとやり方を変えなければならないでしょう。


ここではヘーゲル的な細部こそが、「スコラ的なこだわり」です。それは最初に設定されたプログラムを踏襲するだけで、労働過程そのものの展開に即した再編をあつかう能力がない。なぜなら弁証法とは、「プロセスのスタイルを再編する」というモチーフを排除して成り立つ動詞技法だから。
そんなものを踏襲すれば、苦痛の証言も、それをめぐって為される工夫も、踏みにじるしかなくなるでしょう。
私は、素材レベルの労働過程の問題として、それに抵抗しています。*6

動詞が主題になるような環境づくりを目指して、作業を始めた議論です。


私の論点の出所となった個別の体験は、グロテスクな細部を持ちます。
それをそのまま語っても作業課題の析出になりませんので、みなさんと論点を共有するのは難しい。あるいは「差別された!」と言い続けても、その問題意識のフレームは、既存の差別論と同じです。――私は、既存の差別論そのものが、差別の再生産装置らしいことに気がついた。



批判の制作技法としての、《動詞に照準しましょう》

私の問題意識と提案は、差別問題の専門家である社会学者から差別的処遇を受けた(参照)、そのことへの取り組みでもあります。私は、いまだに謝罪すら受けていないその言動を一生忘れないでしょう。もう6年もたったのに、いまだに毎日のように怒りに支配されますが、ここ数年ようやく、「名詞形が問題なのだ」と気がついた。そしてこの件以外にも、「名詞形」というモチーフが当てはまることに思い至りました。
社会学や差別論の領域に、「相手を名詞形で扱ってはいけない」という規範が、機能していないのです。ですから、さんざん「反差別」を喧伝する人が、私を「ひきこもり」という名詞形に監禁し、陰で誹謗中傷する。自分のことは棚に上げて、「被差別民」だけに恥ずかしい話をさせる(参照)。


そしてそれを、知的言説のコミュニティは受け入れています。抽象的でもなんでもない、固有名詞のある話です。


この社会学者(異性愛男性)は、自称に従えば「女性の全権を代表している」そうですが(参照)、これは社会学では受け入れられる主張なんですか。
「女性」は、まさに名詞形の当事者枠であり、これは「労働者」「ひきこもり」等、さまざまな名詞に入れ替わります。反差別の議論は、この名詞枠をひたすら尊重するのですが、この名詞の枠組みそのものが、差別のフレームです。だからこそ、ひとたびその相手への批判が始まると、差別の再生産になる。


酒井さんは、左翼系の飲み会が往々にして、差別発言のオンパレードであることに気づいておられますか? 私はそういう水面下の話をしたいのです。表舞台で「反差別」かどうか、そんなものはまったく信用していません。
そもそも現状の差別論は、何が「批判」で何が「差別」か、その区別すらできていないのではありませんか。 だから批判を試みただけで、いつの間にか差別になる。私はそこで、原理的な話をしています(参照)。


差別と批判を見分けられないまま差別に抵抗しても、「原理のよく分からない言葉狩り」をやるのが関の山でしょう。それは、恣意的な恐怖政治にすぎません。また表舞台の「反差別の闘士」は、水面下では差別発言の依存症者であり得ます――私が目撃したように。



つながりの作法」の問題としての、《動詞/名詞》論

動詞と名詞をめぐる提案は、ひきこもる状態に特有の、硬直した意識や関係性をも視野に入れています。
意識や関係の技法論差別問題 とが連動するのは、私の立場からは事柄に即しての必然ですが(主観性と集団をめぐる「やりかた」の試行錯誤です)、


それがスコラ的とおっしゃるなら、ではどうやって、「批判」と「差別」を見分けるのでしょう。
あるいは意識や関係の硬直に、どうやって取り組むのか。
それを具体的にご説明いただいたほうが、生産的であるように思います。



*1:これも私の「具体的な分析」であり、問題点の析出です。

*2:私が雑誌『ビッグイシュー』で斎藤環氏に向けた批判と、完全に同じ趣旨の議論です(参照)。

*3:倫理の問題は、技法の問題に置き換えられるべきです。

*4:たとえば臨床心理学系の有力者の一部は、「ひきこもりは見捨てる」と発言したとのこと。 彼らは、人を楽にする学問に意義がある、と考えるのではなく、《学知は崇高だが、ひきこもる人はそれに適合しないから排除する》 と考えるらしい。 完全に転倒しています。(間接的に大意を伝え聞いて驚いたのですが、前後の状況から嘘とは思えないので、私なりに行動を起こしています。)

*5:下痢系の過敏性腸症候群については、日本の成人男性の一割が苦しむとされています(参照)。エントリ本文では反論を書きましたが、管理やマネジメントをミーティング的に考え直すことは、まさに臨床的な(つまり苦痛緩和的な、「やりかた」にかかわる)取り組みです。 これはラボルド病院系でもすでに話題に上がっていますし、「やり方を考え直したい」という私の趣旨にもかないます。

*6:ヘーゲル批判と言っても、「解釈の複数性・決定不能性」や「エクリチュールの断片」等とは、モチーフが違っているはずです。