批評機能の膠着物(Gallerte)としての《価値》

永瀬恭一氏 30年前を素材にする・日本の70年代 展 より:

 埼玉県立近代美術館で「日本の70年代」展が行われている。〔・・・〕 80年代に繋がる非政治的なものも、むしろその非政治性にこそ「カウンター」の意識が込められている

 この展覧会が示そうとした「カウンター」としての70年代は、80年代初期には既にメインストリーム化していたのであり、潜勢力の喪失は始まっていた

 いつしかカウンターではなくメインストリームとなっていった消費社会それ自体に対する未来の「カウンター」が必要になってきた



この文章の、美術領域内での位置づけや射程は私には分かりませんが、
触発された自分の焦点をメモしてみます。



  • 《集団的な批評の機能》 をどう組織する(される)か、マネジメントする(される)か。*1
  • 《消費イメージに駆動される購買》 に、最高の批評ポジションを与えること。それは主観性や関係性の再生産において、70年代後半まではカウンターの意義を持った。しかし80年代にはすでに、「これしか知らない」になった。実はそれは、資本という批評活動に加担すること。
  • 資本という批評事業。 「買われた物に価値がある。買われなかった物は、商品ですらなかった(価値がなかった、つまり社会化されなかった)」というスタンス。 資本という批評では、使用価値や、生産過程の質的複雑さは問われない。
  • マルクスの価値形態論において、私たちは互いに批評家として相対する。 「これは等価なのか?」
  • 疎外とは、批評の権限が自分の側にないこと。 問われているのは、批評権の所在であり、その原理。
  • 作り手としてひどい不毛さや倦怠感に苦しんでいても、「買われた労働力」としては同じ作業を続けなければいけない。批評権は「買われた側」にはない。雇用でなくても、マーケットを相手にするかぎり「買われる側」でしかない。つまり批評権は、「買い手」にある。
  • フェリックス・グァタリ(Félix Guattari)の活動は、生産過程それ自体に批評権を奪回する試みに見える。
  • 主体化の技法を問題にするといっても*2、私たちは自分の技法を、自分ひとりでは決められない。――とはいえそもそも、《技法》 というモチーフは、批評権を奪われた状態ではむなしい。技法へのこだわりでは、批評権の回復が、当然の権利として前提される。
  • 技法は、個人レベルでしか主題にならないと思われている。しかし、資本の活動を考えれば、技法は集団的な問いでしかあり得ない。 《買う−買われる》に巻き込まれた制作過程は、技法を孤立して語れない。
  • マルクスが考察した 《価値》 は、技法を支配する膠着物(Gallerte)*3といえる。
  • 集団的な制作技法で問われているのは、《私たち自身をどう生きるか》。*4
  • 計画経済は、集団的な批評事業として破綻した。
  • 問い直しはひとりでは無理だが、自分が始めなければ、どこでも始まらない。



主観性としていかに制作されるか、その技法。
個人としていかに社会化されるか。(売れようとする「命懸けの飛躍」しかない?)*5



関連するマルクスの記述

資本論 (1) (国民文庫 (25))』 p.77, ドイツ語原文

 Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge steIlen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen gesellschaftlichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte.

 そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、もはやただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなこれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。」

同書 p.88-9, ドイツ語原文

 Wie die Gebrauchswerte Rock und Leinwand Verbindungen zweckbestimmter, produktiver Tätigkeiten mit Tuch und Garn sind,
 die Werte Rock und Leinwand dagegen bloße gleichartige Arbeitsgallerten, so gelten auch die in diesen Werten enthaltenen Arbeiten nicht durch ihr produktives Verhalten zu Tuch und Garn, sondern nur als Verausgabungen menschlicher Arbeitskraft.

 使用価値としての上着やリンネルは、目的を規定された生産活動と布や糸との結合物であり、
 これに反して価値としての上着やリンネルは、単なる同質の労働凝固であるが、それと同じように、これらの価値に含まれている労働も、布や糸に対するその生産的作用によってではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ認められるのである。



美術にかぎらないが、私がさまざまな領域でシラケるのは、
《仕事の価値》 と金額の関係が、バカげて見えるとき。*6
不当な批評が、集団的再生産を支配している。
マルクスの議論では「物神化」かもしれないが、
そもそも今は、何であれ真剣な興味の対象になるのは、

  • (1)瞬間的に消費されるネタ的な強度
  • (2)高い値がついた

でしかない。 言葉を替えれば、超越性は、消費的快楽金額 にしか現れない。


動物化を自明視すれば、集団的再生産への問いが封印されてしまう。
そこでは、主体化の様式や中間集団のありようも問い直されない。



いかにして私たちは、素材的過程に埋め込まれた超越性を蘇生できるか。*7



気の利いたモノや言葉は、その場で消費されて終わり。
この消費様式は、生産過程の集団的体質を、決定的に固着させる。
それはけっきょく、消費そのものをカチカチに固めてしまう。



問われているのは、生産過程と消費過程を支配する価値の様式だ。

  • それは実は、集団的な不定(動詞としての技法のあり方)を問うている(参照)。
  • 思想家とは、《不定技法》 の提案者。*8
  • 思いつめた個人の意識や伝統は、不定詞として(つまり技法として)反復されている。
  • 集団的な試行錯誤の焦点は、結論部分より前に、不定詞のレベルにある。




*1:イベント「MAXI GRAPHICA/Final Destinations」では、「個人でやるほうがよいのか、それとも集団でやることに意義があるのか」が問われていた。

*2:ミシェル・フーコー(とりわけ最晩年)が、そういうモチーフに見える。 手塚博「ミシェル・フーコーの人間学批判 〜実存と実践の哲学」を参照。

*3:マルクス関連の文章ではほかに、「ガレルテ」「膠質物(こうしつぶつ)」「膠状物」などと訳されている。 「膠」は、《にかわ》の意味。 Google の画像検索:Gallerte

*4:「価値じたいが過程の支配的主体となる」(p.338)、「資本のもとへの労働の形態的包摂と、素材的編成」(p.362)、「素材的論理にもとづく抵抗の契機」(p.394)を論じる佐々木隆治『マルクスの物象化論―資本主義批判としての素材の思想』は、私たちの集団的な生の技法を考えているのでもあるはず。

*5:交換様式の歴史的変遷を問う柄谷行人世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)』では、生産様式は、「誰が生産手段を所有するか」でしかない(参照)。 マルクス系の思考伝統もそうなっているが、私はここで、生産過程で問われる技法レベルの超越性の問題として、生産様式に注目したい。それはたしかに、交換様式と切っても切れない。

*6:木の棒にボールを当てる人が、なんで1年に10億円か。その他もろもろ。

*7:それぞれの作業現場では毎日のように蘇生されていても、集団的整備としては、よく分かっていない。

*8:数学や物理学などの専門家は、ただその「ジャンル」の形をした不定詞(ディシプリン)を生きるのみで、不定詞そのものが原理的に問い直されることはまれ。