(3) 生の様式そのものとしての不定詞 infinitif

連続エントリ:



承前  人間の生そのものを、名詞ではなく動詞として考える、という視点は、
私ひとりが孤立しているわけではありません。 細かく見れば違いはあると思いますし、
わからない点も多いのですが、たとえば以下のような議論があります。



フェリックス・グァタリ(Félix Guattari)の不定詞論

アンチ・オイディプス草稿

アンチ・オイディプス草稿



ズバリ、「不定詞」と題された章があります。*1
ドゥルーズ(という哲学者)に読まれることだけを想定して書かれた草稿なので、ひどく分かりにくいですが、
ここでグァタリは、動詞としての私たちの自身が、資本制をつうじて単一的に造形されることを論じています。
つまり、《動詞として生きるしかない私たち自身を、どうするか》 というのが、彼の問いに見えるのです。


以下、同書 p.81(訳をやや改変して引用)と、 原書 p.78 より。
(本エントリ内の引用箇所はいずれも、イタリック体 は原文、太字赤字は引用者)

 資本主義の領野で実務にある不定詞たちは、古くさく硬直した、反生産的な不定である。
 Les infinitifs que l'on pratique, en fait, dans le champ du capitalisme, sont des infinitifs archaïsés et anti-produits


 (あらゆることについて、古臭い硬直の蘇生、そして科学的-資本主義的な「新しい外観」に応じた超コード化)
 (réanimation des archaïsmes de tout et surcodage en fonction du « new look » scientifico-capitaliste).


 実のところシステムは、単一性によって働きかけを受けている。唯一の支配的な機械、すなわち機械の機械。
 En réalité, le système est travaillé par UNE, et une seule machine dominante: machine de machine.


 資本主義の、根源的にスキゾ的な原則。 唯一で抽象的な主体性。
 Principe schizo radical du capitalisme. Subjectivité unique et abstraite.


 資本主義の、硬直して古臭い不定は機械ではない。それは生産的ではない。
 Les infinitifs archaïques du capitalisme ne sont pas des machines, ils ne sont pas productifs.


 それは消極的であり、消費され、構造化され、構造化するものである(反生産の人工的な枠組み)。
 Ils sont subis, consommés, structurés, structurants (armature artificielle de l'anti-production). [...]


 〔非資本主義的な社会では〕 不定は生産する。 生産者になるのだ、生産の原因のごときものに。
 [Dans les sociétés a-capitalistes]*2 l'infinitif produit, devient à son tour, le producteur, quasi-cause de la production.



資本制はダイナミックに見えますが、不定詞に注目すれば、抽象的・単一的で、古臭く硬直したままです。
その社会に適応した主観性は、あらかじめ設定された「唯一で抽象的な」ふるまいを、踏襲するだけ。


草稿の中では短い章ですが、グァタリは非資本制的な不定を生きる豊かさも論じています。
集団的に試行錯誤されるべきは、この不定詞のスタイルであるはず。



ジル・ドゥルーズとの共著での、不定詞論

千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)



えんえんと(邦訳で4ページにわたって)不定詞や固有名を論じた箇所から、
一部を引用しておきます(p.214)。

 内容の平面でもあり、表現の平面でもある存立平面。存立平面の記号系は、とりわけ固有名と不定法の動詞、そして不定冠詞や不定代名詞によって構成される。実際、形式にもとづく意味作用と人称にもとづく主体化から解放された記号系の見地からすると、基本的な表現単位をなすのは不定冠詞+固有名+不定法の動詞であり、これが形式化の度合が最も低いさまざまな内容と相関関係をもつはずなのだ。
 Plan de contenu et plan d’expression. Cette sémiotique est surtout composée de noms propres, de verbes à l’infinitif et l’articles ou de pronoms indéfinis. Article indéfini + nom propre + verbe infinitif constituent en effet le chaînon d’expression de base, corrélatif des contenus les moins formalisés, du point de vue d’une sémiotique qui libérée des signifiances formelles comme des subjectivations personnelles. ("Mille Plateaux", p.322)

この邦訳では「不定法」と訳されていますが、
こちらによると、「ラテン語では不定は伝統的に不定(infinitivus)と呼ばれる」。
上で引用した『アンチ・オイディプス草稿』で「不定詞」と訳されているのは、同じ infinitif です。


次回、ようやくの核心部分です(最終回) ⇒ 【差別と批判の見分け方




*1:本書の編者ステファヌ・ナドー(Stéphane Nadaud)による編注から引用: 《このテクストには1970年1月11日の日付がある。不定詞 Infinitif」というタイトルはジル・ドゥルーズによるもの。このテクストの後には、ドゥルーズが2ページにわたって不定詞について書いたものが続いているが、ここには掲載しなかった。15枚の紙からなるこのテクストには紙が3枚なくなってしまっている。不定詞」というテーマは重要なものであり、そして、本草稿集のなかの公刊されたテクストでは、「不定詞」についての言及が数多く見られることから、ここでは不可欠と思われる節を抜き出すこととした。全体の「一貫性 cohérence」は間違いのないものであると思われる。》(『アンチ・オイディプス草稿』 pp.84-85)

*2:このカッコ内は、編者であるナドー氏が付け加えたもの。直前でグァタリは、資本主義的社会(複数形)と、非-資本主義的社会(複数形)を、対比して論じている。