(2) 《不定詞の束としての人格》という考え方

連続エントリ:



承前  私は今回、ある批判が「差別」と呼ばれるべきなのか、それともフェアな批判というべきなのか、それを見分ける診断基準を探そうとしています。

そこで、どうしても以下の考察に触れざるを得なくなりました。 「あまりに人文的すぎる」と感じるかもしれませんが、恩恵も大きいはずなので、少しお付き合いいただければ幸いです。



人を動詞として、生産過程の様式として、理解すること

よく、「政策は批判してもよいが、人格批判はいけない」と言われます。
私はここで、

  • 人格とは、名詞ではなく動詞である
  • 動詞として生きられる人格は、それぞれの様式での生産過程である

という考えを、提案したいと思います。



前提となるのは、以下のような理解です。

人格や労働過程を論じるための品詞論ですが、

    • 文法の議論では、いまだ文中に位置づけられていない動詞のかたちを、《原形》 というようです。それに対して、文中にある動詞は、その状況に応じて必要な変化を遂げ、それぞれの 《活用形》 を生きている。
    • 文中にあるにもかかわらず、原形と同じかたちで使われる場合には、不定詞 と呼ばれます。




こうした概念をお借りして、以下のような議論ができないでしょうか。

私たちは、つねに何らかの動きを生きています。
やろうしなくても、すでに時間的に、《動き》 を生きることしかできません。
人格が名詞ではなく、動詞でしかあり得ないというのは、ひとまずはそのような意味です。


人格は、さまざまな動詞の束として生きられますが、原形としての動詞は同じでも、
それぞれの個人は、それぞれなりの様式を生きています。
すでに状況内に置かれているので、《原形》 ではありませんが、人格ごとに同じ様式を反復するので、
それは 《状況の中に置かれた場合の原形》 という位置づけを持ちます。


たとえば動詞 《考える》 は原形ですが、実際には、ある様式が無自覚に想定されている。(わざわざ分析を試みないと、そのスタイルは自覚されないものです。「無意識的な差別」があり得るように。)*1

ここで析出された、動詞の無自覚な様式を、

    • 「まだ状況の中に置かれていない原形」 や、「単にバラバラな活用形」 とも区別して、

各人なりの 不定詞》 と呼べないでしょうか。*2


その上で、
私たちのさまざまな 「意見」 は、「一定の様式をもった動詞過程」 の結果なので、
これをそのまま、《生産物》《生産過程》 に、なぞらえたわけです。
(反復される不定詞は、生産過程の《様式》であり、出てきた意見が生産物です。)*3


いつの間にか生きられる不定詞のありかた(動詞のスタイル)は、
反復される 《生産様式》 として、私たちの意見に影響します。



人間という生産過程*4

《考える》 という動詞は、事情に応じてスタイルを変えますが(生産過程の活用形)
私たちはいつの間にか、ある様式を反復しています(思考や分析の不定詞)
原形は同じ「考える」でも、実際にそれを生きるときは、各人なりの不定詞を生きているわけです。


知的な作業ばかりではありません。 親密な関係や、「笑い」についてまで(参照)、
「いつの間にか そうやってしまう」というスタイルがあります。
それを、各人なりの 《不定詞》 として、批評できないか。

    • 「人格批判」というと悪いことのようですが、お互いの動詞の様式を、つまり生産過程のあり方を批評することは、私たちがお互いを(そしてその関係性を)考える上で、必要だと思うのです。 政策や作品など、いわば 《結果物》 への批評も重要ですが、その 《生産過程》 への批評(および改編)も、原理的に必須ではないでしょうか。




直接参照しているのは、以下の二人です。*5

マルクスでは、主体的労働力と客体的労働条件の分離およびその止揚が、資本主義的な生産過程論の核心ですが*9、そもそも 《労働過程》 は、資本主義時代に限定されません*10。 そしてもちろん意識活動は、歴史的制約は受けつつも、どんな時代にも生きられています。(私たちの存在が意識的な作業でなくなったら、それは集団として、何か別の存在です。)

グァタリは、マルクスの労働過程論を直に参照しているわけではないのですが*11、人間の主観性それ自体について、その生産様式を主題にしています。


――私はこの両者を重ねながら、人間の意識活動、あるいは分析的な努力それ自体を、生産過程として、その様式として論じようとしています。



いま必要なのは、ひとまず以下のような理解です。

  • 各人の人格は動詞の束として、特有のスタイル(不定詞)を反復する。それは生産過程として、一定の様式で反復される。その様式については、いくらでも批評や吟味があり得る。
  • 各人の反復する不定詞への、つまり生産様式への批評を禁じてしまっては、《結果物》 への裁断に終始してしまう。これでは、論じる側の不定詞、つまり 《分析側の生産様式》 も固定される(生産の必然にもとづいた生成が禁止される)。
  • 私たちは、生産過程《として》生き、生産関係《として》生きている(参照)。 生産関係は、生産様式との間で重大な影響関係をもつから、「そのような様式は困る」 として、お互いの調整が必要になる。つながりの作法は、そういう話です)*12
  • 分析の不定詞は、一定の様式をもった生産過程として、具体的な状況の中で生きられる以上、誰かの分析不定詞だけが、特権的・メタ的に肯定されることはあり得ない。 どの分析不定詞(そのスタイル)を肯定すべきなのか、その判断も、具体的な状況やタイミングに即してなされる。



――以上を背景に、
《差別なのか、批判なのか》 の鑑別診断について、わかりやすい説明を試みます。


その前に、参照文献について少し ⇒ 【生の様式そのものとしての不定詞 infinitif




*1:たとえば 《分析する》 という動詞は、論者によって中身が違います(参照)。 学問のように厳密に分けていなくても、自分なりに当たり前だと思う分析努力は、いつの間にかあるスタイルを反復しています。

*2:私たちは、つねに一定のスタイルをとった動詞しか体験できないので、むしろ 《原形》 は、理論的に抽象された概念枠です。じっさいに理念的な動詞枠として体験されるのは、《状況の中に置かれている》 という意味での不定詞です。

*3:様式をともなった生産過程は、その様式そのものを再生産します。同じ生産過程を繰り返すことで、その様式はますます強固に。周辺の再生産の様式全体を、支配してしまいます。

*4:精神の営みそのものを 《労働》 と見る視点については、ヘーゲルを参照できます。マルクス自身が、積極的にコメントしています(参照)。

*5:書籍『参照掲載の拙稿 「主体化の失敗から、触媒としての生成へ」 が、このモチーフに直接関係しています。

*6:機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』p.82〜(原書p.84〜)など。 ドイツ語でのマルクスの用語 《生産様式 Produktionsweise》 は、フランス語訳では「mode de production」となっている。

*7:アンチ・オイディプス草稿』p.80〜を参照。グァタリはそこで、非生産的な不定詞の固着を問題にしています。

*8:千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)』p.299〜などを参照。 その基本となる議論は、グァタリの単著『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』に登場しています。 原書初版は、前者が1980年、後者が1979年。

*9:《一方には価値または貨幣の所持者、他方には価値を創造する実体の所持者が、一方には生産手段と生活手段の所持者、他方にはただ労働力だけの所持者が、互いに買い手と売り手として相対していなければならなかった。つまり、労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だったのである。ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純再生産によって、資本主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化されるのである。》マルクス資本論 (3) (国民文庫 (25))』 第7篇 第21章、p115 より)

*10:《労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない》マルクス資本論 (1) (国民文庫 (25))』 第3篇 第5章 第1節、p.311 より)。 マルクスは同じ節で、「動物と人間では、労働過程のありようが違っている」という指摘をしています。

*11:「労働と所有の分離」への直接の言及箇所を見つけられていないだけで、もちろんマルクスには言及しています。 なおグァタリと交流のあったネグリの『マルクスを超えるマルクス―『経済学批判要綱』研究』のフランス語版(『Marx au-delà de Marx : cahiers de travail sur les "Grundrisse』)初版は、1979年です(参照)。

*12:わかりやすい例として、「業績をあげることしか考えていない学者の参与観察」 とか、「医療目線で見ることしか考えない不登校論」などが挙げられます。そうした研究は、自分の関与スタイルそれ自体が、相手をモノ扱いする生産様式であることに気づいていません。