「アナコーレーシス anakhôrêsis」=「ひきこもり」?



訳者のおひとり、廣瀬浩司*1のつぶやき:



確認してみました(改行・強調は引用者による)。

 この自己の技術(テクノロジー)に属するまた別の技術、手続きとしては、退却(retrait)の技術があります。これについては西欧の霊性全体において、非常に数奇な運命をたどることになった言葉が一つあります。それは アナコーレーシス anakhôrêsis です。
 退却は、古代におけるこうした自己の技術(テクノロジー)おいては、ひとがそのおかれた世界から自らを切り離し、自らを引き上げる――ただしその場にいるままで―― 一定のやり方を意味します。それはいわば外界との接触を断つこと、感覚を感ずることをやめること、自分のまわりで起きる出来事にふりまわされるのをやめること、目の前にあるものが見えなくなったかのようにふるまい、そして実際にそれを見ないことなのです。これはいわば、可視的な不在の技術です。人は相変わらずそこにおり、他の人たちの目には見えていながら、しかし不在であり、別の場所にいるのです。 (p.58)

 たとえば思考の不動性、いかなる動揺にも乱されることのない――外部からくる動揺にも、内部からくる動揺にも乱されることがないということで、これは(ローマのストア派の語彙を踏襲するなら)それぞれ セクリタス securitas と トランクィリタス tranquilitas を保証するものです――思考の不動性という主題をとってみれば、そう、この思考の不動化はあきらかに、さきほどお話していた実践がはっきりと異なった一般的な定式を持つ自己の技術(テクノロジー)の内部に置き直され、あらためて練り上げられた姿です。たとえば退却の概念。すでにアナコーレーシスと呼ばれていたこの種の退却は、個人が自身のうちに閉じこもり、そうして外界からあたかも切り離されたようになるということですが、その理論はローマ期のストア派でも見られるでしょう。特にマルクス・アウレリウスには、 anakhôrêsis eis heauton (自己への独住、自己のうちへの、自己へ向けての退却) を表だってとりあげた非常に長い一節がありますが、 〔・・・〕 (pp.60-61)

 このテラペウタイ派は、申し上げたようにアレクサンドレイアの近郊に隠棲した人々の集団でした。これはのちのキリスト教のアナコーレーシス的・隠者的な実践がそうなるような荒野への隠棲ではなく、郊外の小さな庭園への隠棲で、そこではおのおのが僧房ないしは部屋で暮らし、また共同のスペースもありました。 (p.136)



・・・・「アナコーレーシス」というのは、就労やコミュニティ参加を続けたままで(「その場にいるままで」)、いわば「心の回線を切って」、自己をやりくりする技法のように見えます。家族による扶養や協力は必要ないし、自分ひとりでやれる(というか、自分ひとりでやるように追い込まれた) 《工夫》 に見えます。


同書 pp.249-250 より:

 アナコーレーシスはご存知の通り、二つの意味を持っています。

  • 敵を前にしての軍隊の撤退であり(軍隊が敵から撤退する、つまりアナコーレイ anakhôrei するとき、軍隊はその場を立ち去り、引き下がり、撤退するわけです)、
  • あるいはアナコーレーシスは、奴隷の逃亡のことでもあります。奴隷は逃げ出して、コーラ khôra すなわち田舎に行くことで服従と奴隷の身分を免れるわけです。

 問題となるのはまさにこうした断裂です。あとで確認しますが、この自己の解放の等価物にあたるもの、 〔・・・〕 そのどれをとっても自己とそれ以外のものとの断裂に関わるような表現が山ほど、セネカにはあります。 〔・・・〕 セネカの興味深い比喩を指摘しておきましょう。〔・・・〕
 哲学は主体をその場で回転させる。つまり伝統的あるいは法的に主人が自分の奴隷を解放するときに行なうような身振りを、哲学は主体に行なわせる。主人が奴隷を従属から解放することを示し、明らかにし、これを遂行するさいの儀式的な動作がありましたが、これは奴隷を、その場で一回転させるというものでした。セネカはこのイメージを取り上げて、哲学は主体をその場で回転させる、と言ったわけですが、これは主体を解放するためであったのです。つまり断裂は自己に向かうための断裂であり、自己の、まわりとの断裂であり、自己のための断裂であったわけですが、自己のなかでの断裂ではなかった、ということになります。



いま世界中で問題になっている「ひきこもり」は、自覚的なボイコット*2や技法と呼べるようなものではなくて、「そうするしか出来ないから、そうなってしまった」というような、ひどく不自由で硬直した姿であり(主観性としても関係性としても)、それがご家族の許容である程度は快適に保たれるとしても、周囲に対してひどく一方的だし(場合によっては虐待とも言える)、少なくとも現状において、それ自体として積極的に語るようなものではありません*3


アナコーレーシスには、軍事的・隷属的関係を断ち切って、まったく無関係に《自分の回転》を始める契機があるとして、ただこれだけでは、周囲から自分を引き離す話でしかないので、《ではどうするか》 の部分に、ヒントがない。
多くの人は、「ひきこもったあと」、どうしていいか分からず*4、硬直を強めていくだけなので、別の問題意識が必要に思います。


本人は、強引な撤退をしないと、自分を維持できなくなっている。つまり、《主観性や関係性をうまく維持できない》 という事情にある。 それゆえ、ひきこもることそのものを社会規範的に肯定したり否定したりしても、あるいはそれを「ひきこもりシステム」と描いても、現象の核心部分を論じていないし、処方箋にもならない。


問題は、主観性や関係性の作業過程そのものにあります。*5
私がマルクスやグァタリを参照するのは、そのあたりが理由です。



*1:廣瀬浩司氏は、メルロ=ポンティの《制度化》概念(参照)、シモンドンの「個体化のプロセス」(参照)、ドゥルーズ/グァタリの《機械》概念(『ドゥルーズ/ガタリの現在』掲載)などを取り上げながら、環境のさなかで言葉や動きが 形を成す プロセスそのもの――そこでは、能動と受動が簡単に分けられない――に照準しておられると、私には見えています。

*2:不登校というのは、一種のボイコットだと思うんですよ」(柄谷行人

*3:運動体には「全面肯定」とおっしゃる向きもありますが(参照)、これまたひどく硬直したイデオロギー的態度で、そもそもが「どうにもならない状態」であることを、逆に示しているように思います。あるいは「全面肯定」は、幼児あつかいに過ぎません。

*4:家族も、兵糧攻めと全面受容の両極しか分からない

*5:過剰なプライドや自意識・ナルシシズムは、うまくやれない惨めさの姿そのものといえる。チープな自己確保以外に、自分を再生産するスタイルを知らないのだ。