浅田彰氏のスキゾ論

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)



今村仁司氏と浅田彰氏の対談 ドゥルーズ=ガタリを読む」、pp.92-95 より(強調はいずれも引用者)

浅田 現代性(モデルニテ)という言葉を使われたわけですが、資本主義が現代性モデルニテというコード、現代性モデルニテという様式をもっていると言えるとして、それが何と奇妙なコードであり様式であるかということに驚く必要がある。そもそも、現代性という様式、様式そのものを次々に更新していくような様式とは、一体なんだ、というわけです。もちろんそれは用語法の問題であって、コード自身を日々新しく作り変えろというメタ・コードを含めて全体をコードとよぶならば、資本主義にもひとつのコードがあるという言い方はできると思う。けれども、それでは本質を見失うことになるんじゃないか。資本主義というのは絶えざるコードの革新を本性としているのであって、安易に異質なものをとりこむとか混沌の叛乱を促すとかいうようなことでは、そのようなダイナミックスに寄与する結果にはなれ、けっしてそれを打ち破ることにはなり得ない、ということがまずあると思うわけですね。
 それでは一体どうすればいいか。いま言ったように、資本主義というのは脱コード化のメカニズムではあるわけです。しかしそれはあくまでも相対的脱コード化にすぎない。つまり欲望の流れは、いっぺん脱コード化されるわけですけれども、さきほど言ったようなイデオロギー装置、ドゥルーズらのいう公理系*1を通じて、一定の方向に回路づけられている。回路づけられているばかりか開発利用搾取されている。これを打ち破り、絶対的脱コード化を一種のユートピア――ただし現実的な運動であってイデアルなモデルではないのですけれども――として進行させねばならないということになってくる。その絶対的脱コード化の運動こそスキゾ・プロセスなのです。

今村 一言それに付加しておくと、相対的脱属領化が近代資本主義の最も特異なあり方なんだけれども、それとともにそのお蔭でスキゾ・プロセスという特異なあり方をも近代資本主義は実現したという、非常に積極的な意味合いもある。ドゥルーズたちのユートピアがあるとすれば、それへ向かうためにも近代資本主義という特異な社会のあり方というものが、どうしてもある意味では積極的に評価されるある段階だ、ということも逆には言えるだろうと思うわけですね。
浅田 一言で言うと、スキゾ・プロセスというのはウルトラ・キャピタリスムなんですね。水路づけを撤廃したところにあらわれる多数多様な流れというわけですから。
今村 多様性という概念が、ドゥルーズの非常に重要視する概念だから、多様性という概念を使うと、とにもかくにも近代市民社会は一方では再属領化を作って一方向性のオリエンテーションをもつけれども、多様牲というものをともかく全面化する可能性を開いたという点では、これは単純に否定できるようなものではなくて、重要な成果というかな、そういう言い方は可能なわけでしょう。
浅田 と言うより、最大の抑圧と、解放への最大の可能性とが、背中合わせになった段階だというわけです。
今村 だから資本主義を善玉悪玉というかたちで善悪道徳論的に批判するというのはぜんぜん問題にならない。近代貸本主義社会の再属領化というか、秩序づけの志向も一方では非常に強いわけで、フロイト主義みたいなものも出てくるし、いろんなものが出てくるけれども、その裏側を通って出てきているスキゾ・プロセスというのは非常に巨大なものである。問題はその再属領化的な足伽というものを突破して、脱属領化の、別のかたちで言えば、本当に全面的な自由と同義の多様性の錯綜というものをいかにして実現できるか、これが現代における倫理的実践的な課題にもなってきていると思われる。



あるいは、同対談 pp.105-107 より

浅田 原理的な可能性の問題が検討されるべきだと思うんですね。実はドゥルーズ=ガタリときわめて近似した認識が中井久夫や、とりわけ木村敏*2の業績のなかから出てきてる。木村敏ドゥルーズを引用もしていて、極めて面白い。本当はたいへん緻密な議論なんですが、ごく簡単に言うとこういうことだと思います。つまり現象学でいうノエシス的な自己とノエマ的な自己という対があるわけですけれども、その対に先立つ場所、西田哲学的な意味での場所なんでしょうが、そこに純粋な差異のエレメントとしてノエシス的な自発性の動きというものがあると考える。それがノエマ的な自己に逆規定されてはじめてノエシス的な自己になるのだと。この、自発性の場における差異化の運動というものは、まさしくスキゾフレニックな運動そのものですね。ところが、もしもその運動が露骨にあらわれてしまえば、つまり極めて弱くしか規定されないかたちでそれ自体としてあらわになってしまえば、それはもう臨床医学の対象としての分裂病である、つまりユートピアも何もない、悲惨なる病気でしかないのだというわけです。これは臨床医の見解としてはまったく当然なもので、そのとおりだろうと思いますけれども、ぼくたちの文脈にこれをそのままもってくるのは問題だ。つまり、そこまでいってしまえば狂気なんだ、だから狂気から一歩退いたところで次善の策を講ぜねばならないと。そうすると、へたをすると資本主義こそがその次善の策だ、ということになってしまう。つまり錯乱の手前で最大限の運動性を実現しているのが資本主義だということになっちゃうわけすけれども、こうなると非常に危険だと思うんですね。
 ドゥルーズ=ガタリの場合、スキゾ・プロセスといい分子的な群衆といい、きわめて具体化しにくいようにみえていますけれども、さきほど逃走について語ったように、実はかなり具体的な社会的運動のイメージをもって考えられている。そういう運動こそがドゥルーズ=ガタリの意味でのスキゾフレニーなのであって、それと臨床医学の対象としての分裂病とは一線を画さないといけないし、原理的に一線を画しうる、というのが彼らの立場だと思います。
今村 それはそうでしょうね。
浅田 資本主義による 属領化があるからこそスキゾフレニックな運動が病気というかたちでしかあらわれえないのだと。ならば、そのような資本主義による水路づけ自体を撤廃してしまうことによって、ユートピックな展望を開こうじゃないかという、その非常にエンカレッジングな力というものは高く評価すべきだと思います。悪口を言うのは簡単なんです。スキゾフレニックに走り回っていればいいというのは、要するに住まいを構えなくてもいいやつ、つまりガキの思想だとも言えるだろうし、ある種の再生産と持続をどうしても必要とする生活というものを知らないような冒険や遊びの思想だとも言えるだろう。けれども、決してそれにとどまらないような現実的な展望をもっていることは見落とせないと思いますね。



浅田彰氏の議論については、まずは大まかに、次のような混乱を指摘できる。

分けて考えなければいけないはずのものが、いつの間にか、同じ話として進んでしまうのだ。


  • 集団レベルと、個人レベル
    • 資本制では、集団としては分断やダイナミズムが生じるとしても、個人レベルの言動は貨幣を目指すものでしかない。個人が利益を目指す活動には、破綻や多様性は全くない。合理的であり、個人レベルの事業は一つに決められている。
    • そこから単に「逃げる」といっても、実はまったく「逃げた」ことにはなっていない。既存の事業から逃げても、同じ資本制を採用した集団にしかいられないのだから*3、あらためて事業に参加するときには(お金がなくなれば賃労働に戻るしかない)、やはり同じスタイルの事業に参加することになっている。個人として「逃げ」たところで、集団として反復される事業は同じのまま。
    • だから考えるべきは、個人としても、集団としても、《新しい事業》はあり得るか、になる。それゆえ、「資本主義と分裂症」なんて、テーマだけ ドゥルーズ/グァタリ に一致させて論じていても、意味はない*4


  • 資本制の爛熟で生じる「病理現象」と、積極的な「自由」
    • 浅田氏のいう「スキゾ・プロセス」にしろ、あるいは解離や発達障碍にしろ、「いつの間にかそうなっていた困った状態」であり、これは不自由の増大にあたる。 しかし schizo-analyse は、むしろ自由を生き切る方法論として、提案(再措定)されていた(参照)。
    • この対談が行われた1982年(30年前!)から、資本の活動はさらに爛熟したが、そこから「schizo-analyse がたくさん出てきた」と言えるだろうか。 少なくとも、積極的に選び得るような自由の事業が増えたとは思いにくい。 むしろ、「やむにやまれぬ不自由が増大している」ように見える。


  • 破綻としての「スキゾ・プロセス」と、事業としての「スキゾ分析」
    • schizo-analyse では、分析に関する特異な実態が提案されている。 受動的なスキゾ・プロセスが生きられるだけなら破綻にすぎないし(参照)、 「スキゾフレニックに走り回っていればいい」(浅田彰)だけでは、新しい事業は提案されていない。
    • 難しいのは schizo-analyse が、《デカルト的主体による合理的事業》がそうであるような、わかりやすい能動性の仕組みを持っていないらしいこと。 自由にかかわる事業であるのに、単なる能動性ではないのだ。 【ここに、國分功一郎氏が展開するドゥルーズ*5との接点がある。】





浅田氏がドゥルーズとグァタリの提案について、
積極的に論じかかっているところを、もう一度(断片的に)引用してみる。

  • 欲望の流れは、いっぺん脱コード化されるわけですけれども、さきほど言ったようなイデオロギー装置、ドゥルーズらのいう公理系を通じて、一定の方向に回路づけられている。回路づけられているばかりか開発=利用=搾取されている。これを打ち破り、絶対的脱コード化を一種のユートピアとして進行させねばならないということになってくる。その絶対的脱コード化の運動こそスキゾ・プロセスなのです。
  • 純粋な差異のエレメントとしてノエシス的な自発性の動きというものがあると考える。それがノエマ的な自己に逆規定されてはじめてノエシス的な自己になるのだと。この、自発性の場における差異化の運動というものは、まさしくスキゾフレニックな運動そのものですね。
  • ドゥルーズ=グァタリの場合、スキゾ・プロセスといい分子的な群衆といい、きわめて具体化しにくいようにみえていますけれども、さきほど逃走について語ったように、実はかなり具体的な社会的運動のイメージをもって考えられている。
  • 悪口を言うのは簡単なんです。スキゾフレニックに走り回っていればいいというのは、要するに住まいを構えなくてもいいやつ、つまりガキの思想だとも言えるだろうし、ある種の再生産と持続をどうしても必要とする生活というものを知らないような冒険や遊びの思想だとも言えるだろう。けれども、決してそれにとどまらないような現実的な展望をもっていることは見落とせないと思いますね。



浅田彰氏は、「現実的な展望をもっている」といいながら、その前提となる積極的提案については、本当に何も論じていない。 「絶対的脱コード化」など、それ自体では何でもない。


必要なのは、《自分としては何を引き受け得るか》、その事業の内実だ。
浅田氏はそれについて、「スキゾフレニックに走り回っていればいい」としか言えていない。
これでは本当に、どうしようもない。


ただし、ヒントには触れている――《自発性の場における差異化の運動》。
この部分をこそ、論じなおすべきなのだ。



*1:〔原文の注42〕 《近代に入って、質的な位置の体系を規定する規範であったコードが解体(デコデ)されてしまうとき、それに代わるものとして、量的な流れの運動を調整する管理規則、いわば一種の整流器のようなものが必要となる。これがドゥルーズ=ガタリのいう公理系である。なお、公理系は(国家のイデオロギー装置)を含むがそれよりもはるかに広い概念である。》

*2:〔原文の注55〕 《木村敏自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)』とりわけ VI 章を見よ。なお、現象学では、意識の志向作用の側をノエシス、意識の志向対象の側をノエマと呼ぶ。従って、自己意識のなかの「意識する自己」の側がノエシス的自己、「意識される自己」の側がノエマ的自己となる。前者が述語的なはたらきであるのに対し、後者は主語的な実体である。》

*3:世界を覆いつくした資本制に逃げ場はない

*4:ハイカルチャーか、ローカルチャーか」というのも、偽の対立であり、その対立を設定した時点で、重要な設計は終わっている。本当の論点は、「どっちを論じるか」ではなく、《どういうスタイルの分析を生きるか》にある。

*5:國分功一郎ドゥルーズの哲学原理(3)〜思考と主体性」(岩波『思想』2012年8月号) など