不定詞の党派性と、レジリアンス

レジリアンス・文化・創造

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pp.215-6、小林聡幸氏執筆の箇所より(強調は引用者):

 ウィニコットが創造性の逆の概念として盲従をいうとき、まずは例えば社会的抑圧のもとで外的現実に迎合するしかない状態であるが、「この世を生きていく第二の方法は精神医学的な意味で、病気として認知されることである」。確かに精神疾患は自分の主体性の外部という意味での外的現実に盲従を余儀なくされる。とりわけ統合失調症の場合、患者の主体性が障碍されるという意味で、圧倒的な病的体験を前にしてその力に従わざるを得ない立場に置かれてしまうということができるだろう。
 ある患者の言葉を引こう。20歳の時に発症し、現在、43歳の統合失調症の患者である。彼は常に他者から影響を受けてしまう。しばしば「人の気配を吸い取ってしまうんです」と述べる。気配を吸い取るというのはどういう意味か問うと「自分がなくて、周りの人次第で流されているみたい」、「流れて泳いでいるみたい」などと言い換え、それが盲従に関わる何かであることが推察される。恐らく、人生を遡って、幼い頃から父親を恐れ、父のいうことに従うほかなかったということと関わっている。
 そんな彼が、39歳で怠薬して攻撃的となり、父親と蹴り合いのケンカをして、自ら言うところでは、父親に「勝って」から父親が怖くなくなった。「それからオヤジが怖くなくなった。原点に戻ってまっさらの自分になって。でもそこから何も生み出せなくて、自分から行動することができない。それで無駄にドライブなんかに行っちゃうんです」。
 家族からしたら、深夜にドライブに行ったり気ままに生活しているとしか見えないのだが、患者にとってそれは何も生み出せない行為なのである。「原点の自分」とはまったく創造性を持たないのだといえる。それなのに行動はしている。この患者は「40歳になって、結局、自分というものが持てなかったんです。でも、当たり前はできます」と述べたことがある。そこでこの「当たり前」、あるいは「無駄にドライブに行くこと」を創造性に裏打ちされた行為に、「よい生」「比類ないもの」に、いかに転換しうるか。それが目下のところ臨床的な課題となるのだと思われる。


  • 自分なりの問題意識を形にすることは、まさにレジリアンス(自己回復力)の発揮といえる。しかしそれは、既存の価値観と対立する。レジリアンスは、独自の問題意識に基づく政治活動の問題でもある。アール・ブリュット(Art Brut、「生(なま、き)の芸術」)ならぬ、ポリティク・ブリュット(politique brute)*1
  • 主観性をうまく構成できず、流されるのが耐えられないと言い始めると、政治的に排除される。生き延びるには、空虚な器のようにならねば。*2
  • これでは楽しみは、「もはや起きなくてよい」の甘美(つまり死)だけになる。
  • 主観性をうまく構成できず、「流される」こと。これはまさに、《党派性》の問題圏といえる。党派性は、単に政治的なテーマではない。まごうかたなき臨床上の課題である。カルト宗教でなくとも、支援者に巻き込まれざるを得ない。



党派性の問題は、環境が設定する不定詞と、自分が生きざるを得ない不定の葛藤として描き直すことができる。たとえばグァタリは『アンチ・オイディプス草稿』で、硬直した不定詞の話を繰り返ししている。

 資本主義的ではない状況では、フローとストックは、特異な不定詞化に基礎づけられており、資本主義では、それらは諸々の不定詞の《不定詞化》に基礎づけられている。 (p.83)
 dans la situation a-capitaliste, les flux et les stocks sont fondés sur une infinitivation singulière et dans le capitaliste, sur l’Infinitivation des infinitifs. (『Écrits pour l'Anti-Œdipe』p.81)

不定詞の硬直をこそ問題にしなければ。



*1:「politique brute」でネット検索すると、ネオリベラル云々の政治論が出てくる。つまり「野蛮な政治」。

*2:そうすれば、病気や障碍の枠に入れてもらえる(参照)。