人称なき強度は独我的で、必然に満ちた《分節過程》

志紀島啓氏のツイートより:



「各人が特異性(singularité)なら、お互いが《他者》だから、独我論とは矛盾するはず」 ということでしょうか。


しかし、これがあくまで 特異化の《プロセス》 の話だと考えれば、
矛盾どころか、同じ話を別の角度からしただけに見えます。


特異化の分節過程は内在的で、分節それ自身の内的必然に基づく。
その意味で「自我」という実体確保と相いれず、かつ
順応的配慮とは無縁なので、独我論的です。
受動的に湧いてくる必然のみに基づいて、特異化の分節過程が垂直的に屹立する。


志紀島さんのご発表との関係でいえば(参照)、

  • 特異性(singularité)は、固有名ではなくて「人称を欠いた諸強度」であり、
  • 自我さえない独我論は、「人称なき強度」として、固有性の奪還です。*1

ふつうは逆に理解されています。 つまり、

    • 特異性(singularité)を実体的に理解するゆえ、それを固有名と受け取り、
    • 独我論を実体的に受け取るゆえに、「人称なき強度」を固有性と対立するものと読んでしまう。


これは、要素現象というより、《党派性》の問題ではないでしょうか。

党派性を反復する場所では、オリジナルの分節過程は、逸脱的になります。
その異様な分節過程の必然性をどう救いだすか、が問題なのであって、
破綻や侵襲的支配の擁護も、そのためでしかない。*2
党派順応的な言説は、分節過程の強度をもって屹立できない。



・・・そして、だからこそ、

「そういう特異化のプロセス同士が同じ場所でやっていくには、どうすればいいか?」という、意思決定の問題に直面します。分節過程が内的必然に基づいておのれの道を行くのはいいとして、しかしそれは、お互いに相手を説得できません(お互いに独我的で特異的ですから)。

それに内的必然と言っても、人は自分に都合の悪いことは論じたがらないし、分析に見えて抑圧してるだけ、というのが日常茶飯です。精神分析にあるような、面接室の権力構造に基づいた技法もないし、これでは誰もが好き勝手に、「おのれの特異化のプロセス」を生きるだけになる。――分節過程を自由に解き放つことは、恣意的なごまかしをやるだけに終わりそうです。


というわけで、それをまとめて「意思決定の問題が残る」としたのが、
ドゥルーズガタリへの、あるいはウリ&ガタリへの私の問いです。 参照1】 【参照2


分節過程を恣意的に生きるだけなのに、「意思決定の問題は存在しない」と言うとしたら、
それこそ取り上げるに値しない、「中央集権的独我論」で、どうにもなりません。
党派への奉職を要求するスターリニズムです。*3


超越論的なものを確保するには、単なるルーチンとは別の分節が開始される地点を守らねばなりませんが、それが恣意性の擁護でしかないなら、「独りよがりの温存」にすぎません。そんなことなら、フラットなままの方が安全、ということになる(裁判や医療行為はその典型)。*4


お互いが恣意的なまま場所を共有すれば、相互に独我性の邪魔でしょう。
そうすると、あくまで自分が特異的・独我的であるためには、周囲の頭の中まで操作しなければならない。――いつの間にかそれは、DV 的になります。
ガタリは中間集団をテーマにしたはずですが(参照)、やはり党派性の問題は、わからないままに残ってしまいます。


【つづき:《分析の政治》】




*1:実体化された固有名は、特異的過程の強度を生きたあとに、事後的に冠せられるにすぎない。

*2:真の強度に満ちた分節過程は、意識的にコントロールできるものではなくて、「押しつけられた、受動的な」ものでしょう。またそのような強度が開始され、駆動されるためには、ルーチン通りの手続きは、破綻する必要があります。

*3:ドゥルーズガタリには意思決定の問題は存在しない」と言い張ることで、それを問うた私の問題意識こそが「反革命」として糾弾されることになるわけです。 《「特異性」「自我なき独我論」のスローガンのもと、全員が一丸となって邁進しなければならない、ところがあいつは、「意思決定に難がある」などと言う。粛清だ!》 ・・・・というような。 D&G の逸脱肯定は、ロシア革命以後に標榜された「革命的適法性(революционная законность)」に近付いてしまう。これではどうしようもない。 cf.藤田勇ソビエト法史研究 (1982年) (東京大学社会科学研究所研究叢書〈第55冊〉)』p.211〜。 【ついでに指摘したみたいになっちゃいましたが、これは本当に悩ましい。ガタリの名を挙げて逸脱を称揚する人たちは、特異的分節を生き抜くのではなく、単に「革命的適法性」の自意識を反復してるだけではないでしょうか。】

*4:本当は、超越性がなくなったから相対主義的になったのではなくて、超越論的な縦軸を召喚するためにこそ、徹底した独我論と分節の特異性が必要になっているのですが、ここを読み解けている「ポストモダン法学論」は、見たことがないです。結論部分の相対性ばかり言っている。 その場から新しくやりなおすような創発的な解釈は、アルゴリズム化した(フラットになった)解釈の場所で、縦軸をやり直すためにこそ必要であり、だからこそ こうした分節過程が、“臨床的” 意義とも関係する――私はそういう理解でいます。