絶対に避けられないものを目標にする

私がどうしても抜けられなかった固執は、

 この現象から trauma 可能性を消したい。その意味で、現実を現実でなくしたい。少なくともその変更可能性に向けて従事するのでなければ、その可能性があるのでなければ、とてもこの現象経験に耐えられない。*1

だったと思う。 それは、この現象から死を排除したい、できなければとても生きていられない、だった。


神経症は、《死にたくない》という形をしている。*2
いつか訪れる死だけでなく、突然すべてが破綻する可能性も、廃絶できない。
廃絶できないものを「廃絶できるかもしれない」として、その可能性を拠り所にリアルポリティクスへの参画をなかったことにする。 これこそ現実逃避ではないか。こんな逃げが強迫化すれば、実務は無能になる。


死が絶対に避けられないなら、それをうまくデザインすることは、不可避の仕事になる。*3
適切な死を、あるいは安楽死を目指せば良い。 そう気づいてから、楽になっている。


避けられないものを積極的にやることで、去勢を手に入れる。
生き延びようとする努力は、ウソをついて無理をすることだった。



ひきこもりには、次の二つが同時にある。

  • 産まれてきたことへの被害者意識
  • 疎外への強迫的拒否

これが絡み合って、カチカチの結び目みたいになっている。*4
無理に剥がそうとすると暴発する。 「気合い」で支え抜こうとしても、長続きしない。
意識の再構成に、「息を詰める」かたちしか知らない。*5


ネット回線を勝手に解約されて家族を殺した引きこもり事案(参照)について、精神科医の小林芳樹氏は、ラカン派の「サントーム」概念と結びつけて説明しておられた*6。 「それなしでは主体化できない」要因があるとして、ではそれをどう組み替えるか。


症候は肺腑。 なければ息ができないが、そのままではダメ。



【2012年7月12日の追記】

極限的に私的でしかないはずの三島由紀夫切腹が、別の文脈では究極の自己犠牲として語られる。また、つねに自分以外の誰かのために語る左翼は、つねに強欲な自己確保でしかない。党派的アリバイ意識を、再生産してるだけ。*7

「公的/私的」の区分は、そんなに分かりやすくない。 「公的な」者ほど、自分のアリバイに他者を利用する。

ラカンの「サントーム」は、その区分を独特のしかたで分からなくする。最悪に私的に見えた活動に、自己犠牲をみる。文句のつけようのない「100%の正義」に、下品な自己確保を見る。

ひきこもりのために、と語る支援者や学者が許せないのも、そういうこと。問題に取り組むふりをして、自分のことしか考えていない。そういう論じ方、そういう仕事のしかたが蔓延する状況そのものが問題なんだろうが!



*1:不登校に苦しんだ中学時代から、単語「trauma」が私の強迫観念だった(参照)。 この私たちが生きる現象経験はあくまで外傷的で、「これをやっておけば大丈夫」が絶対にない。この現象には、逃げ場がない。フィクションは、ついにフィクションに成りきらない。存在は、本物であり続けている。

*2:さまざまな説明を読んできたが、数日前にこの説明がまとまって霧が晴れたように感じた。問題あるだろうか?

*3:それを許さないとは、どんな卑劣な抑圧だ?

*4:「働くぐらいなら死んだ方がマシ」は、疎外が破綻イメージになるから。

*5:「あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」(北野武ソナチネ [DVD]』)

*6:先日の京大シンポ(参照)で、マリー=ジャン・ソレ氏の発表 自閉症―症状なき社会の症状》 へのコメント内でのこと。聞きとりにくかったため正確な言葉遣いは分からないが、「それなしではいられない何か」と共にあるしかない、主体化の危うい境位を説明しておられた文脈だった。小林芳樹氏(参照)は、『精神分析の名著 - フロイトから土居健郎まで (中公新書)』で「サントーム」の項目を執筆されている。それを読んで感じたのは、私が自分の命や家族への迷惑と引き換えにしてまで、このブログで原稿用紙 数万枚に及ぶ論考を記してきたのは、まさにサントームと呼ぶしかないような固執だったということだ。そして私は、それを自分で肯定できない。こんなことでは駄目だったろう。私は、もっと適切に介入しなければならない。サントームであるとは、「そのままでいい」を意味しない。それは何か、より適切なものに改編されねばならないのだ。

*7:弱者を擁護すれば常に正義でいられるつもりなんだろう。だから、問題のディテールそのものに即した丁寧な分節をまったく聞いていない。「100%正義」の中央集権で、すべてを弾圧しようとする。