先日のやり取り(その一部)から。
.@ueyamakzk で、精神病にはスキゾフレニー(破瓜型)とパラノイア(妄想型)の両極がある。垂直の力がもっとも強力に働くのはパラノイアの極であって、スキゾの側では垂直の力があるとはいっても、言葉と物が同じ水準でまざりあってしまうために水平にみえてしまう。
2012-06-02 20:43:15 via web to @ueyamakzk
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- ここで再検討されているのは、論じる側であることに注意。
- 「他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている(De Alio in oratione, tua res agitur.)」(参照)
- 「これは私に関係がある!」と思うのは、ふつうなら患者と呼ばれる《分析主体 analysand》であり、精神分析家は、まずはこのポジションを通過する。 そして、つねに分析主体のポジションに立ち還る。
もうちょっと一般的な話にしておくと、これは精神病論の対象負荷性といえばいいのかわかりませんが、スキゾフレニーを中心に構築された精神病論と、パラノイアを中心に構築された精神病論は、きれいに対照をなします。このことは歴史が証明しています。
2012-06-02 21:02:35 via web
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- スキゾとパラノの対比は、対象に貼りつけられるレッテルではなくて、分析スタイルの問題だった。*1
- そこから考えれば、スキゾ的な「分析」とパラノ的な「分析」こそが対比される。
.@kay_shixima 「ラカンを読むだけで効果がある」「孤独でなければ」といったあたりは、志紀島さんの議論がどういう趣旨の負荷を帯びているか、検討したいところです。さきほどschizooさんが「理論の対象負荷性」という言い方をされましたが、
2012-06-02 22:10:24 via web to @kay_shixima
.@kay_shixima 私でいうと、やっぱり「社会的ひきこもり」バイアスで見てるんだと思います。「週に一回面接室で会う」みたいな話には、ほとんど意義を見いだせなかったし、それどころかラカン系の議論を読めば読むほど、しんどくなってしまった。
2012-06-02 22:11:33 via web to @kay_shixima
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- ある理論は、論じる側の必要に応じてかたどられている。
- たとえば趣味人の必要と、「うまく論じられなければ自分が破綻してしまう」という人の必要は、同じテーマを論じていても違っている。
- 「客観的に」論じることは、それ自体が私的な都合に満ちている。
.@kay_shixima トスケイエス=ウリの「制度分析」についても、その必要性の負荷(?)からご理解いただくのが、分かりやすいかもしれません。私は理解が進むにつれ、「ひきこもりの話じゃないか!」と、興奮した。
2012-06-02 22:23:31 via web
理論について、対象負荷と必要負荷を考えるべき。
必要が対象を選び、対象が必要を決める。この相互限定がある。
必要には、《論者自身の必要》がある。フロイトのいう「技法は人それぞれ」も、このあたりか。
自分に向いていない対象は選ぶべきではないし、選んだ対象に向かない技法は生きるべきではない。*2
向き・不向きは考えないといけない。人材配置を間違えてはいけない。
あらゆることを知り尽くした(と思い込んだ)人は、大事なことを何も言わなくなる。知的努力そのものについての換骨奪胎や生成がなくなる。同じ方針を反復するだけになり、知的方針そのものを疑うことがなくなる。*3
新しいことを勉強している最中のひとが、いちばん生成的に考える*4。 これはラボルド病院(制度分析)周辺の、最も重要な知見のひとつ。
登場する固有名詞は同じでも、これまでとは違う話を始めている。80年代と同じポーズで論じても、そこからはもう何も出てこない。というか、私はこの30年への幻滅が出発点なので、ノスタルジーはあり得ない。