対象負荷と必要負荷

先日のやり取り(その一部)から。

    • ここで再検討されているのは、論じる側であることに注意。
    • 「他者についての語らいのなかで、あなたのことが問題になっている(De Alio in oratione, tua res agitur.)」(参照
    • 「これは私に関係がある!」と思うのは、ふつうなら患者と呼ばれる分析主体 analysandであり、精神分析家は、まずはこのポジションを通過する。 そして、つねに分析主体のポジションに立ち還る。

    • スキゾとパラノの対比は、対象に貼りつけられるレッテルではなくて、分析スタイルの問題だった。*1
    • そこから考えれば、スキゾ的な「分析」とパラノ的な「分析」こそが対比される。

    • ある理論は、論じる側の必要に応じてかたどられている。
    • たとえば趣味人の必要と、「うまく論じられなければ自分が破綻してしまう」という人の必要は、同じテーマを論じていても違っている。
    • 「客観的に」論じることは、それ自体が私的な都合に満ちている。



理論について、対象負荷と必要負荷を考えるべき。
必要が対象を選び、対象が必要を決める。この相互限定がある。


必要には、《論者自身の必要》がある。フロイトのいう技法は人それぞれも、このあたりか。
自分に向いていない対象は選ぶべきではないし、選んだ対象に向かない技法は生きるべきではない。*2
向き・不向きは考えないといけない。人材配置を間違えてはいけない。


あらゆることを知り尽くした(と思い込んだ)人は、大事なことを何も言わなくなる。知的努力そのものについての換骨奪胎や生成がなくなる。同じ方針を反復するだけになり、知的方針そのものを疑うことがなくなる。*3

新しいことを勉強している最中のひとが、いちばん生成的に考える*4。 これはラボルド病院(制度分析)周辺の、最も重要な知見のひとつ。


登場する固有名詞は同じでも、これまでとは違う話を始めている。80年代と同じポーズで論じても、そこからはもう何も出てこない。というか、私はこの30年への幻滅が出発点なので、ノスタルジーはあり得ない。



*1:ガタリの臨床を報告した精神科医三脇康生氏が繰り返し強調していたのも、この点だった(参照)。 ただし三脇氏においては、今度はそのスキゾ的なあり方が一般化されすぎるのだが。

*2:選んだ理論の体質は、すでに技法の体質そのもの。

*3:アフォリズムばかりになる、など。

*4:新版 現代政治理論』冒頭での、キムリッカの証言を参照。勉強を《進めている最中》こそがシビアに介入的な意見を持つ、ということ。 「勉強中」は、最も生産的な知性の時間なのだ。